大椿寺(会津藩士のお墓)

大椿寺(だいちんじ)「椿の御所」神奈川県三浦市向ヶ崎7-11
京浜急行三崎口から城ヶ島行バス20分椿の御所徒歩5分

@椿御所跡
A本堂 右手は幼稚園になっています

寛喜二年開山の禅寺。「桜の御所」「桃の御所」及び「椿の御所」を三浦三崎源頼朝の三御所と云います。大椿寺は、「椿の御所」と呼ばれましたが、今はひっそりと数本が残るのみです。ちなみに、本端寺が「桜の御所」、見桃寺(けんとうじ)が「桃の御所」と言われています。大椿寺には、会津藩関係のお墓が二基在るとの地元の方のお話でしたが、一回目は休日に訪問したため、お寺には何方も不在でお墓の所在が分かりませんでした。
2週間後再度訪問、ご住職に会え、墓地に案内していただきました。墓地に二基、裏山に五基のお墓が在りました。

本堂の左手に墓地があり、会津藩士の墓は、左奥の階段を登った所に長井夫婦の墓があります
B泰清院殿勇叡義容居士

左京君諱定興世会津藩臣初為代官見習考定武君老以番代為外様士歴物遷組頭考卒襲禄転家老組組頭文化十四年増扶推番頭鎮相州三崎文政三年十一月九日終干官春秋四十四葬子州三浦郡向崎大椿寺地君姓慎密事和順為政清敏深通□□撫下有恩能得士心客歳譜厄利亜来以君要之□海口而能使其船不得□□中賞賜外套卆之曰部下軍民感泣日従前鎮将未有如君本原利隆第二子出嗣長井氏妻其女生一男四女男夭以篠田氏之子半歳為後配以長女次許嫁村松氏餘尚幼半茂将撃家還郷也則施金若干□寺僧以充歳時香花且乞余文表墓余□君通家義不可□銘日洋□窺隙防在海涯生死干此長護国家
文政庚辰十一月会津中原泰撰

C寳鏡院殿真淨妙現大姉
長井氏奥之会津人甚右衛門定武之女定武無男子以原利隆之子左京定興為養子以配之文化十四年定興為番頭鎮相之三崎従役焉文政元年十一年四日卒年三十有九葬干三浦郡向崎大椿寺中以黄金若干施於寺以為香火之資云
長井夫婦の墓から奥の階段を上に昇り、フェンスに沿って本堂の裏山に上がると、林の中に五基の墓がありますが、夏の間は上り口を見付けるのは大変だと思います。
Dフェンスに沿って5mほど奥に入る
E右側に細い登口があります

観音堂跡(裏山の五基)

手前から
F亮鏡院湛然妙寂大姉G篤叟宗義居士H現光院明誉曜照童女I霊松院明操守節大姉J了春童女

F亮鏡院湛然妙寂大姉会津河野通武母之墓 
文政二己卯年四月四日

G篤叟宗義居士
会津福田林助豊重之墓
文政二己卯年七月廿六日

H現光院明誉曜照童女
会津二宮正意女 
文政三庚辰年二月十九日

I霊松院明操守節大姉
能保母之墓 
文政元戊寅九月廿一日

J了春童女