三昧堂(会津藩士のお墓)

三昧堂(さめど)腰越墓地 横須賀市鴨居3−30
京浜急行浦賀駅からバスで鴨居下車(かもめ団地行)徒歩15分・腰越下車
(観音崎行)徒歩5分。
近くに西徳寺・能満寺があり全部廻るには鴨居バス停が便利です。

会津藩士のお墓は、地元の人もあまり知らない三昧堂(さめど)と呼ばれる所に、三浦半島会津藩士顕彰会の努力もあり横須賀市指定史跡として、整備されています

@会津藩士墓地の案内板 A三昧堂墓地の全景 
B腰越墓地の全景 
C会津藩士墓の配置図 
1、純信神霊 2、文姫神霊 3、田中興休妻墓 4、中川重方墓
5、上崎忠世墓 6、忠樹神霊 7、田中興休孫墓 8、上崎忠雅赤子墓
9、光誉法山玄秀居士 10、紀宗美二女 11、釈善念信女 12、妙短童女
13、明了院持□看居士 14、松永包修之女 15在竹平助隆明女
16、寿石川傳八娘 17、井形親民墓、 18、井形親民妻墓
19、紀朝臣宗方墓 20、杤木勝美墓 21、青緑神霊 22、釈幼清墓 
23、釈善明

@会津藩士墓地の案内板
会津藩士墓地の案内板@
バス便の良い鴨居バス停から県道209号を道なりに進み腰越バス停先に@会津藩士墓地の案内板があり、左に入り小川に沿って少し行くと左にまた会津藩士墓地の案内板@があり左に曲がり階段の中途に「会津藩士のお墓」があります。
角の家のお花に見とれて行き過ぎてしましました。
A三昧堂墓地の全景
C会津藩士墓の配置図 

文化七年(1810)幕府の命令を受け、三浦半島の海岸警備並びに台場構築の任務に当たったことに始まり、文政三年(1820)十二月にその任務は解かれるまで、家老西郷頼母をはじめとして観音崎・浦賀平根山・城ケ島に八百余名の藩士並びにその家族を派遣した。
以前,この三昧堂墓所は走水の円照寺の所有地でしたが,今は横須賀市が管理しています。
三昧堂のある腰越は,会津藩が文化八年(1811)に,江戸湾海防のため陣屋を置いた場所で,この陣屋には会津藩士の子弟を教育するための「養正館」という藩校まで在ったとのことです。

1、純信神霊、
姓狩野氏諱盛秀稱八大夫致後改稱澤右衛門

2、文姫神霊
姓土屋氏諱柳父諱清倉稱市郎大夫東奥会津士也妻市岡氏
3、田中興休妻墓、文政元戊寅年
4、中川重方墓、
会津士文化十五年戊寅年二月十四日
5、上崎忠世墓、
会津士 文化十三年丙子年七月十六日
6、忠樹神霊、諱忠樹姓斉藤俗稱平左衛門盛雅之子奥州会津人也盛雅卒子長雅
7、田中興休孫墓、会津臣
8、上崎忠雅赤子墓、
会津士 文化十年正月晦日
9、光誉法山玄秀居士、会陽之士鈴木玄秀墓文化十癸酉年十年十日
10、紀宗美二女、文化二乙亥年五月八日
11、釈善念信女、文化九壬申年八月十五日
会津臣石山久八紀知母之墓
12、妙短童女、松永包直之女文化十二年乙亥年春二月廿二日
13、明了院持□看居士
十一年甲戊七月二十二日疾卒年三十葬於州三浦都鴨居村腰越山君諱包直稱庄呑衛門姓松永氏父諱包修稱三郎治也奥州会津士文化八年包与父来于相州権于甲士

14、松永包修之女
文政二巳卯年秋八月十五日

15、会津之士 在竹平助隆明女
文化十二乙亥四月廿八日
16、寿石川傳八娘 
母岡田氏文化丙子三月十九日
17、井形親民墓、
会津士文政二巳卯年七月朔日
18、井形親民妻墓、文化九年壬申年十月四日
19、紀朝臣宗方墓、文化十癸酉年二月十五日
会津竹内三右衛門紀宗泰父也
20、杤木勝美墓

姓栃木氏諱勝美稱学之進奥州会津人也父諱勝蕃稱勘之丞母外□氏
文化八年勝美以甲士移于相州三浦十四年二月二十六日以疾卒年四十八葬于群鴨居邑腰越山孝子栃木勝忠建之

21、青緑神霊、文化十一年戍年三月十七日
杤木勝美三男
22、釈幼清墓
文化十二亥年正月二十九日
23、釈善明、文化十二年乙亥年四月廿八日会津悪原氏