清泰寺の市指定文化財について
@有泉勝長木碑 A見性院霊廟三具足

@有泉勝長木碑について (どうしても写真を見たい方

この有泉新左衛門勝長の木碑は、調査報告書によると、笹沼与左衛門勝尹二男で勝長の女婿五兵衛勝隆が勝長の三十七回忌元禄十六年(1703)に清泰寺に納めたもので、正面に法名、俗名、死没月の記載があり、他の三面に牌後譜があるとのことです。
自寂院相善 俗名有泉新左衛門藤原勝長 正月晦日謝世
祖父は有泉大学諱勝重、穴山伊豆守梅雪の家臣で、梅雪は武田家の一軍を指揮して遠州味方原之役に従う。後梅雪東照宮神君に奉仕し、尾州小牧之役で勝重は無双の戦功であったが、梅雪終焉のあと、勝重は神君の旗下となり、上州に五百石を拝領する。梅雪、嗣無く其室見性院は武州安達郡大牧村千石を賜る、勝重は一子五兵衛重治を呼んで曰「見性院君本信玄之息女、而旧主之夫人、是亦我君也、今雖不幸絶嗣、台寵如此者不亦栄乎、而家法草昧士女放縦、汝住奉之、得君意安、是義士所為也、務哉」重治諾し即行する。故に勝重に世子無く、遂に其禄を喪う。慶長十八年(1613)三月二日会津忠将源正之公山字幸松三歳の時、故あって見性院、幸松公を養う、重治の子新左衛門勝長(小字金弥)僅か七歳の時です。元和三年(1617)、幸松公は台徳院の命により信州高遠城主保科肥後守正光公の義子となり、同年十一月八日武江を出発、十四日高遠着、その時神尾六左衛門および金弥二人が従った。重治は田安に留まり、元和五年(1619)六月九日見性院君卒し大牧村清泰寺に葬る。
正光公、重治の忠実厚き事を喜び十五口の俸を賜う、正之公襲封し、勝長に恩顧あつく待遇し、始終養老の禄を与え、これを優する。勝長、寛文七年(1667)正月晦日謝世、寿六十有五歳也、先陰に頼るなり。三百石の禄かたじけなく、正之公、正経公、以って今羽林少将正信公至るまで歴三世に仕え、既に行人に任じ更に謁者に進む、往年台より命を受け、当朝に於いて松平氏に復し、葵の御紋を拝し、正信公秘かに諾す、則夫見性院君昔日之言宣合前知、其識亦可謂卓矣、抑易忘而難記者、古今の通情、いわんや己住の事、遠祖の跡人の仕業難しく思い、新に木牌を造り、筆を以って其姓名を表面に於く、別に家譜その始卒を牌陰に陳し、謹んで清泰寺中に置く、翼先霊之氷有託、祖業之久不巧、而子孫世々?是生報之心、懐迫遠之誠、是蕨志也、後之継之者幸其諒諸、
元禄十六癸未年八月晦日有泉五兵衛勝隆虔誌

参考文献
浦和市文化財調査報告書第21集 浦和市教育委員会
浦和市文化財調査委員 小坂浅吉

A見性院霊廟三具足について(どうしても写真を見たい方

浦和市教育委員会の浦和市文化財調査報告書によれば、承応三年(1654)清泰寺には、霊廟(阿弥陀堂)が建てられ、過去に2回、三具足の寄進が有ったが、揃っているのは、寛政元年のこの1組のみだそうです。
三具足は真鋳製の香炉、花瓶、燭台の3点セットからなり次の銘文が彫られているとのことです。
見性院殿御霊前
松平肥後守御寄附
武州足立郡大牧村
清泰寺義珍代什物
寛政元己酉年(1789)
  三月吉祥日

参考文献
浦和市文化財調査報告書第34集 浦和市教育委員会
浦和市文化財保護審議会委員 増田三男