多磨霊園(会津に関係の人々)

東京都府中市多磨町4−628
西武多摩線多磨駅下車徒歩10分

正門右側に管理事務所があり、有料ですが霊園図を配布しています。平面図には区、種、側まで記載があります。側の場所が分からないと、グルグル廻ることになってしまいます。

多磨霊園正門
JR中央線と甲州街道に挟まれ、大正12年に開設された都営墓地。約128万坪と、とにかく大きい。都心の霊園と異なり墓所面積を50%以下に抑えられており、緑が多い

芝生墓地
正門左側すぐ、
芝生墓地や壁型墓地などの都市型の新形式墓地が出来ています。
会津松平家墓
4区−1種−21側
会津松平氏墓域

松平健雄  会津藩最後の九代藩主、
松平容保の次男(元伊佐須美神社宮司)

松平勇雄 会津藩最後の九代藩主、
松平容保の次男松平健雄の子、
元福島県知事

井深家一門之墓
17区−1種−8側 
白虎隊茂太郎子孫井深大氏の墓
井深重次墓
会津善龍寺にある井深宗家の墓(井深重光父)、西郷一族の墓域の上の斜面にあるが、道から外れていて、夏は草木が生茂り見つけるのは、かなり難しい。
佐藤家墓

11区−1種−19側  
会津出身、ルッターの根本思想の神学
墓碑に佐藤繁彦の名があります。

中村家之墓台座

18区−2種−86側 台座
祖父会津藩士鈴木清吾九五才
伯父      五郎十六才
墓碑裏
明治元年九月十五日六郎
兄 鈴木五郎白虎隊十六才 
一ノ堰激戦三日討死 
              甥秀夫

千葉家之墓(正面)

3区−1種−30側
千葉雄太郎平長胤墓       
秋田庄内藩支配の新徴組組士。

慶応元年十二月十二日見回り中、幕府小譜請組石川又四郎配下の永島直之丞を中村常右衛門、中村常右衛門と共に殺害、責を問われ慶応元年十二月廿六日自刃、二十一才

千葉氏之墓域

左側の奥から中村常右衛門、千葉雄太郎、羽賀軍兵衛の墓石が並んでいる
中村常右衛門 三十五歳。応元年十二月廿六日自刃
羽賀軍太郎  二十五歳。応元年十二月廿六日自刃

阿部家之墓

6区−1種−5側 
右端
白河藩主阿部正外墓 昭和二年に台東区西福寺より改葬

本多家墓

3区−1種−25側  
岡崎藩主本多忠民 京都所司代

本多葵
間部家霊塔
4区−1種−29側
鯖江藩主間部詮勝 京都所司代
右側面に旧越前鯖江藩
間部氏家紋
山本五十六墓

7区−特1種−2側   
長岡藩士高野貞吉六男、
海軍軍人

東郷平八郎墓

7区−特1種−1側
海軍軍人、旧薩摩藩士。
多磨墓園の最初の名誉霊域埋葬者

西郷従道墓

10区−1種−1側
旧薩摩藩士、西郷隆盛の弟。

西郷氏家紋