會津墓地の由来

幕末の京都は暗殺や強奪が日常化し、徳川幕府
はついに新しい職制を作り京都の治安維持に当た
らせることになった。これが京都守護職である。
文久二年(一八六二)閏八月會津藩主松平容保公
は十四代将軍徳川家茂から京都守護職に任ぜられ
同十二月二十四日、家臣一千名を率いて京都に到
着、京都所司代・京都町奉行所の出迎えを受けて
本陣の黒谷金戒光明寺に威風堂々と入陣した。
 黒谷金戒光明寺は、自然の要塞になっており、
御所や栗田口にも近く軍事的要衝の地であった。
また、大きな寺域により一千名の軍隊も駐屯する
ことができた。
 当時の京都は尊攘激派による暗殺の坩堝と化し
てうたが、守護職となった會津藩の活動には目を
瞠るものがあり、翌年八月十八日には激派の公郷
を追放し、元治元年(一八六四)六月には守護職
配下の新選組による「池田屋騒動」、七月十八日
一九日の「禁門の変」の勝利などで治安は回復さ
れてきた。しかしながら會津藩の犠牲は大きく、
藩士や仲間小者などで戦死、戦病死する者が続出
した。そこで本陣の金戒光明寺の山上に三百坪の
墓地が整備され葬られた。その数は文久二年から
慶應三年までの六ヵ年に二百三十七霊をかぞえ、
後に慰霊碑を建立し鳥羽伏見の戦いの百十五霊を
合祀した。
 松平容保公は孝明天皇の御信任厚く禁裏洛中を
挙藩一致に大義を明らかにし、會津軍の忠誠は、
歴史にその名を残した。この忠烈なる真義に徹し
た英魂の遺徳を顕彰せんが為にこの碑に由来を誌
す。
 松平 容保 公 都の歌会にて御詠
 “窓前竹”
 さす月よ うつるのみかは 友ずりの
   こゑさへ きよし 窓の呉竹

 

                 平成十八年三月  建之

                         会津弔霊義会
                           会 津 会
                          東海会津会
                          京都會津会