金戒光明寺

紫雲山金戒光明寺(会津藩殉難者墓地)京都市左京区黒谷町121
市バス停 岡崎神社前徒歩5分、東天王町徒歩10分
丸太町通にある岡崎神社横にある小道から入る南門口からが解りやすい

三門(山門)
楼上野正面の額は後小松天皇の宸翰「浄土真宗最初門」の勅額があります
紫雲山金戒光明寺南門
黒谷は谷間ではなく地名(比叡山西塔の黒谷別所からか)で、会津藩墓地は岡の上にあり、かなり見晴らしのよいところです。南門から文殊塔への階段124段をのぼり左に折れて、西雲院のまえを道なりに通り最初の角を左に曲がった右手にあります
本堂
浄土宗大本山紫雲山金戒光明寺は浄土宗四箇本山(知恩院・清浄華院・知恩寺)の一つで、黒谷とも呼ばれている。安元元年(1175)浄土宗の開祖法然上人が比叡山西塔の黒谷別所を出て、吉田山南麓の丘陵上に庵を結んだのが始まりと言われる
大方丈(講堂)
文殊塔への階段

会津藩殉難者墓地への道
この階段を登り左に行く。

文殊塔

金光院わきから東にのびる石段を上り詰めたところに三重塔が立っている。この塔は、豊永宗如が徳川秀忠追善のために建立し、文殊菩薩を祀ったとされる。そのため文殊塔とも呼ばれており、大和阿部文殊、丹後天橋立の切戸文殊とともに日本三文殊の一つに数えられている

案内石柱
金戒光明寺には多くの会津藩殉難者墓地への道標があり、そのほとんどが会津本郷町出身の実業家柏村毅氏によって建立されています

会津藩殉難者墓所左京区黒谷町(金戒光明寺前)
昭和32年為明治戊辰戦役九十年祭記念柏村毅建之
左京区黒谷町(金戒光明寺墓地内)会津墓地保護会建立会津墓地参道(道標)6ヶ所
会津墓地 此上東北端ニアリ
会津墓地  紫雲石ノ東ニアリ
左京区黒谷町(金戒光明寺墓地内)5ヶ所、
昭和33年柏村毅建之

西雲院

西雲院は、浄土宗の大本山・金戒光明寺の塔頭のひとつ。
開基の宗厳は、李氏朝鮮の人で、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に連れ帰られたと伝えられます。北の政所に仕えた後、出家。本山の上人から法然上人ゆかりの「紫雲石」を授かり、石のそばに庵を結びました。

金戒光明寺略図

黒谷に眠る人びと

@清和天皇火葬塚
A八橋検校
B山崎闇斎
C会津小鉄
D熊谷一族
E山中鹿之助
F春日局

@清和天皇火葬塚
東墓地、文殊塔の後の小高いことろに石柱で囲られた円塚があります。
A八橋検校

文殊塔の東、清和天皇火葬塚の奥にあります。陸奥国岩城の人。
近世筝曲の開祖

B山崎闇斎

文殊塔から北へ三十歩、「闇斎先生蛍域東距三十歩許」の石柱を東へ三十七歩」のところに墓域があります。垂加流神道を説く。
見室宗利山崎嘉右衛門敬義之墓

C会津小鉄

西雲院門内、西側にあります。
一乗院春誉静窓金剛居士(右)
   侠客 会津小鉄事
         上坂仙吉

D熊谷一族
法然上人御廟の前に平敦盛と相対して熊谷直実の五輪塔がある
E山中鹿之助
山中鹿之助幸盛の五輪塔があります。
潤林院殿大誉淨了禅定門
F春日局

徳川家光の乳母。徳川秀忠夫人(御台墓)の西側にあり、明智光秀の臣、斉藤利三の三女。
祥麟院仁淵了義

黒谷会津藩墓地