近藤勇 土方歳三両雄墓地改修紀念碑
         (碑文)

新選組は文久慶應の比幕府の命に依り時の京都守護会津参議松平容保卿に附属し京都の安寧秩序を保護し近藤勇が隊長となり土方歳三が副長たるに及ひ特に責任の重きを自覚し紀律を厳にし恒に守護職の命令に依りて行動せる適法の警察隊なりき勇は夙に剣豪として知られ其侠勇は当時有志の徒と稱する過激派の浪士をして心胆を寒からしむ而も混沌たる幕末の政変期に際し此一代の剣豪は遂に朝敵の汚名を蒙り明治元年四月二十五日瀧野川町三軒家(当時板橋刑場と云ふ)に於て斬に処せられ其首級は京都に送られ胴以下を此地に埋めたるが明治八年元の新選組助勤として勇と肝胆相照せる永倉新八事杉村義衛翁は副長土方歳三を加へて追悼の碑を此地に建設せり爾来墓地は其所有者たる寿徳寺に於て管理しあり而して幾度か改修の議起れるも遂に其機会を得ずして今日に至れり 昭和三年秋偶々秩父宮家と新選組に縁故最も深き旧会津藩松平家と御婚儀の盛典あり又畏しくも 聖上御即位の大典を挙げさせられ世を挙げて奉祝の誠意を棒げまつる此時に当り曠古の御大典を奉祝し併せて秩父宮家の御盛儀を紀念する意味に於て此近藤土方両雄の墓地を有する当瀧野川町北谷端睦会は会長以下各幹事二十九名発起人となり七名の実行委員を挙げて境内改修の議を進むると共に寿徳寺住職宮木宥弌師を始め近藤の生家たる宮川氏並に義衛翁の令息杉村太郎氏へ提議せるに何れも双手を挙げて賛同せらる尚其経費を広く有志並に縁故関係者に募りしに石碑裏面に記載せる諸氏の外参百余名の熱誠なる後援を得て同年十月十四日を以て起工し 同四年四月十五日竣工して境内の面目を全く一新し長へに明治維新の史蹟を保存する事となりぬ 世に近藤勇の英名を知るもの多きも其終焉の地を知るもの甚だ尠し茲に泉下の英霊を弔ふと共に此碑石の前に立って願望すれば幕末の天地に活躍せる両雄の面目眼前に髣髴たるものあるべし

                             倉田 清撰   丸山締蔵書