三ノ輪円通寺(死節之墓)

百観音円通寺 荒川区南千住1−59−11
JR常磐線・地下鉄日比谷線南千住駅徒歩15分
国道4号日光街道沿いにあり、駅から江戸竿で有名な「竿忠」の店まえを通れば道は合っています。

箕輪の圓通寺は、江戸時代「下谷の三寺」として下谷廣徳寺(郊外篇練馬広徳寺に記載)、入谷鬼子母神(下町篇入谷正覚寺に記載)と共に有名でした。
八幡太郎義家が奥羽征伐した時、四十八の賊首を此処に埋め四十八塚を築いたことにより、小塚原とこの辺が呼ばれる様になった。また、昔門前に観音堂が在り、ここを中心に六里四方を観音原とも呼んでいたそうです。円通寺は明治時代に唯一「賊軍?」の法要が、おおっぴらに出来る寺として、旧幕臣の信仰を集めたと言います。

周りは柵によって管理されていますが、お寺の許可が得られれば、柵内に入る事が出来ると思います。
円通寺本堂
全景

慶応四年(1868)五月十五日上野で彰義隊と官軍の激戦が展開され、その中心地上野山内「袴越し」に建っていた黒門で、明治四十年十月帝室博物館より下賜されたものです。
荒川区指定有形文化財に指定

黒門

無数の弾痕が往時の激戦を今に伝えています。

入口に在る碑
武士能 忠死痛むや 夕さ久ら
(もののふの ちゅうしいたむや ゆうさくら)
なかの墓碑群です
旧幕臣の戦死者の供養に尽力した義商三河屋幸三郎が向島別宅に、鳥羽、伏見、函館、会津などの戦死者の氏名を彫って供養をしていたものを官許のある円通寺に移築する事により、彰義隊と合わせて供養が出来ることになったと言います。昭和58年日荒川区史跡に登録
死節之墓

記載氏名
(向って左側)
松平鉄五郎、大舘昇一郎、石川春十郎、市川寅五郎、笹間金八、
三好源七郎、吉永徳太郎、戸井田源之丞、三宅與茂七、藍葉老之丞
大野吉之助、塩田又五郎、
蟹江錦之助、風間駒吉、藤野伊之助、新嶋楮之助、中村鋳三郎、
大谷栄治郎、栃堀休二郎、林一弥、金井弥一郎、福嶋鐘吉、
遠山鐘五郎、藤井銹三郎、
三宅八五郎、横田祐三郎、諏訪部信五郎、狩谷秀蔵、本山小太郎、
忠内次郎三、吉沢文五郎、古橋丁蔵、
金井米蔵、古屋作左衛門、永井堂之介、奥山八十八、春日左衛門、
大岡幸次郎、石井楳太郎、川島金治郎、
(裏側)
慶応戊辰之夏於野州日光山下戦没
高林磯次郎、杉江誠一郎、高木詮之助、吉沢鎌五郎、平山弥三郎
翌己巳之夏於奥州宮古及箱館戦没
土方歳三、甲賀源吉、中島三郎助、伊庭八郎、鈴木蕃之助、
内田量太郎、杉山敬次郎、高木鐘次郎、塚本禄輔、大塚浪次郎
(右側)
佐久間近江守、窪田伊勢守、近藤勇、松村五郎、大野新太郎、
菅野三五郎、松岡岩吉、南條武蔵之助、岡田斧吉、木下海蔵、
諏訪常吉、石井八弥、榊原只太郎、矢作平三郎、森田貫助、
松平五左衛門、中田納助、宮地仙之助、小笠原新太郎、佐久間貞二、
渥美三平、野村理三郎、長尾八郎、設楽範助、小野又治郎、
春日辨茂、長谷川得蔵、酒井兼五郎、塩嶋松太郎、稲村性治郎
大沢精一郎、杉本浪江、磯田庄蔵、中嶋恒太郎、酒井□(金篇に扇)太郎、
筒井専一郎、新宮勇、和多田貢、関口有之助
神木隊二十八名

戦死墓(彰義隊士の墓)
慶応四年(1868)五月十五日、上野東臺の戊辰戦争で戦死し放置されていた多数の彰義隊士の遺体を当時の円通寺の住職仏麿和尚と寛永寺御用商人三河屋幸三郎・新門辰五郎が集めて遺骸二百六十六体を上野山内にて荼毘(下町篇上野戦士之墓)に附し円通寺に埋葬した。
「死節之墓」に記載のある諏訪常吉は会津藩士。藩主松平容保の京都守護職時代の公用方勤務、戊辰の年、渉外方として奥羽列藩同盟を進める若松城が落城後、箱館で同行の会津藩士70名ほどで会津遊撃隊を組織する。
諏訪常吉
中に新門辰五郎の碑がありました。