谷中長明寺(蝶子之墓)

日照山長明寺 谷中5−10−10 JR日暮里駅徒歩10分
日暮里駅から谷中銀座の商店街に向って左に入る七面坂(宝珠山延命院にある七面堂にちなんで付けられた)を下り、左に曲がった所にお寺があります。谷中銀座の商店街に真直ぐ向うと、夕焼けだんだんと呼ばれる階段が道のど真中にあり、なにか懐かしさを感じる風景があるところです。

谷中長明寺山門
長明寺本堂
蝶子の墓は、お堂の左側にある墓地をお堂に沿って行くと、お堂の裏手に金網で囲われた一区画があり、中の二列目の中央より少し奥にあります。
銅鐘堂
この鐘を鋳造したのは、江戸鋳物師の名人椎名伊予良寛と言われており、天和二年(1682)当寺檀那屋代安次が寄進したものです。
会津藩士平田門十郎二女
蝶子之墓
会津藩士平田門十郎の二女、江戸和田倉門内の藩邸で出生。禁門の変で父を失った後会津藩士赤岡忠良の養女となる。義姉に中野竹子がいます。戊辰の戦いでは、姉女隊の副司として白河口で奮闘する。のち会津藩士戸田衛門と結婚、明治十八年十月沒する。

此婦将十九歳慶応戊辰八月於白河口為奮闘姉女隊任副司連戦也竹子隊長雖会子戦死尚転戦中鶴ヶ城反聞落城漸解文兵不棄節遁士茲十八星霜明治十八年十月六日遺深憂遂以為逝去埋此所也依誠也  
施主 姉富子
    妹吉子

家紋 三ッ並び矢
経王寺山門 
荒川区西日暮里3−2−6
日暮里駅から長明寺に向う途中の右側にあります。道の右側が荒川区、左側が台東区になります。
山門弾痕の痕

慶応四年(1868)の上野戦争のとき敗走した彰義隊をかくまったため新政府軍の攻撃をうけることとになり山門には今も銃弾の痕が残っている。
(荒川区教育委員会説明文より)
百四十年近く人が触っていた為か痕がツルツルになっていて、とても弾痕の痕とは思えませんでした。

左側面