上野公園界隈
@東叡山寛永寺 台東区上野桜木1-14-1 JR鶯谷駅南口徒歩10分
A野口英世博士像 国立博物館に向って大噴水右手
B上野東照宮 上野動物園の横五重塔そば
C戦死之墓 上野公園西郷隆盛像後

D天海僧正毛髪搭 上野公園内戦死之墓の斜め後

@東叡山寛永寺
寛永寺根本中堂
三代将軍家光が寛永二年(1625)江戸城の北の鬼門を鎮護するため川越喜多院の天海大僧正に命じて造らせたとされ、天台宗の関東総本山で芝増上寺とともに将軍家の菩提所となったが、建物は慶応4年、上野彰義隊の戦いでほとんどを焼失しています。現在の寛永寺本堂は明治十二年、川越喜多院から移転したものです。
上野戦争碑記 寛永寺根本中堂右手前
撰文は、彰義隊生き残りの幕臣阿部弘蔵杖策で、明治四十五年五月に建立されています。
隊名を「彰義」としたのは、この阿部弘蔵と云われています。
A野口英世博士像
明治九年、福島県猪苗代町三城潟に生まれ、1歳半のときに囲炉裏で大ヤケドを負った手の手術がきっかけとなって、医師になる決心をしたと云われています。北里柴三郎主宰の伝染病研究所助手となり、その後渡米、大正七年からは中・南米やアフリカに赴き、黄熱病の研究に努めたが自らも感染、昭和三年53歳のとき現在のアフリカ・ガーナ国の首都アクラで没した。この野口英世銅像は総高約4・5メートル(台石を含む)、製作者は多摩美術大学教授吉田三郎。英世の写真に基づき、試験管をかざした実験中の姿を表現したもので、台石にはラテン語で「PRO BONO HUMANIGENERIS(人類の幸福のために)」と刻まれています。昭和二十六年三月、現在地に造立
台東区教育委員会説明板より
B上野東照宮
上野東照宮は、藤堂高虎が上野山内の屋敷内に徳川家康を追慕し家康を祭神とする宮祠を造ったもので、上野の地名は藤堂高虎の出身地である伊賀上野から付けられたといいます。
今の社殿は慶安四年(1651)に三代将軍家光が大規模に造り替えたもので、参道には五十基の巨大銅籠が並んでいます。これらの銅籠も東照宮社殿とともに、昭和四十年国の重要文化財に指定されました。
百九十五基あると言われる石灯籠の並んだ参道を進むと青銅灯篭五十基があり、社殿に向って左側に在る御水舎の手前にある五基のうち二基が会津藩主保科正之が奉納したものです。(右一番奥と左の一基竿は同じものでした)
二基は伊賀少将藤原朝臣高虎、筑前太守従四位下侍従源朝臣忠之 の銘があり一基は台座のみです。残り二基は慶安辛卯四月十七日 會津従四位上左近衛兼少将源朝臣正之と銘がありますが、基礎竿は同じですが、台座火袋の模様が異なり、火袋の家紋が一つは葵、もう一つは巴紋で笠も異なりひっとすると、、、

C戦死之墓 上野公園西郷隆盛像後

山岡鉄舟筆になる「戦士之墓」は彰義隊隊士の遺体の火葬場の跡に建てられています。慶応4年5月15日朝、大村益次郎指揮の東征軍は上野寛永寺に立て篭もった彰義隊を総攻撃、彰義隊は同夕刻敗走した。いわゆる上野戦争である。彰義隊士の遺体は上野山内に放置されたが、南千住円通寺の住職仏磨和尚、寛永寺御用商人三河屋幸三郎、新門辰五郎らによって当地で荼毘に付された。正面の小墓石は、明治二年寛永寺子院の寒松院と護国院の住職が密かに付近の地中に埋葬したものを後に掘り出したものです。大墓石は、明治十四年(1881)十二月に元彰義隊小川椙太らによって造立。彰義隊は明治政府にとって賊軍であるため、政府をはばかって彰義隊の文字はないが、旧幕臣山岡鉄舟の筆になる「戦死之墓」の字を大きく刻まれています。

彰義隊由来の碑

生き残った小川ら隊士は、明治7年(1874)にようやく新政府の許可を得て、激戦地であり隊士の遺体の火葬場となった当地に彰義隊戦死の墓を建立した。なお、遺骨の一部は南千住円通寺内に合葬されており、以後、120年余りに渡り、小川一族によって墓所が守られてきたと云われています。この由来の碑「彰義隊墓表之来由」が建っています。旧彰義隊分隊天王寺詰組頭小川椙太事当墓碑発起担当者 静岡県士族小川興郷述

D天海僧正毛髪搭 上野公園内戦死之墓の斜め後

寛永寺発祥の本覚院跡にある寛永寺を創建した天海僧正の毛髪が納めてある搭天海僧正は、天台宗の僧で陸奥国に生れ、関ヶ原の戦い後、徳川家康の帰依を受け、幕府の宗教行政に参画。二代将軍秀忠のとき、家康の遺骸を日光山に改葬、また上野に東山寛永寺を江戸の鬼門鎮護の目的で建立した。江戸城の鬼門に当たる上野に東叡山寛永寺、反対の裏鬼門には目黒不動が配された。黒衣の宰相とも呼ばれ、一説には、織田信長を打った明智光秀がじつは天海僧正で、秀吉の手を逃れて、家康の元に走ったという話もあります。

もう少し詳しく知りたい方に