谷中霊園(会津人のお墓)

谷中霊園 台東区谷中7−5
山の手線日暮里駅徒歩3分

短いが階段のような急な坂を上がり、路なりにいくと谷中霊園があります。この谷中霊園は、谷中天王寺や寛永寺の敷地などを東京府が継ぎ、明治七年(1874)に公共谷中霊園として一般に開放されました。3万坪の霊園の中に約7千近くの墓碑があり、しかも中に寛永寺の墓地もあり非常に標柱をみても分かり難く、管理事務所で確認したほうが安全です(もっとも日暮里駅から行くと中央通りの反対側の入口にあります)。谷中霊園には会津関係の多くの人々のお墓や碑が多く残っています。とにかく甲乙何号何側までは必ず最初に行く事が早道です。甲区はすべて中央通りから入ったほうが早いと思います。乙区は簡単な地図にでも号区を符って行かないと直ぐ位置が判らなくなってしまい、奥にはいるとカラスに囲まれて怖い思いをするかもしれません。また宇和島藩主伊達宗城(乙8号11側)のお墓もあります。

甲区
@南摩綱紀の墓と碑 A石川暎作の碑 B羽山光和の墓
C加波山事件関係者の墓 D馬場瑞園、妻楽子之墓 

甲区
@南摩綱紀の墓と碑、  甲1号7側2番
従四位南摩羽峯先生之墓
南摩累代之墓
会津藩士南摩綱雅の子、幼名三郎諱綱紀号羽峯 蝦夷代官を務め、後東大教授となる。日本弘道会副会長
南摩羽峯先生妻竹子墓
羽峯南摩先生碑銘 甲3号5側1番

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E内村直義の墓 F赤塚武盛の墓 G馬島・小松家之墓所 H日下義雄之墓

A石川暎作の碑 甲2号8側3番

岩代国河沼郡野沢の石川市十郎の三子、アダム・スミス「国富論」を翻訳する。
B羽山光和の墓 甲7号12側

故根室県大書記官従六位羽山光和之墓
会津藩士諱光和堀悌助更羽山氏、戊申後斗南へ、のち樺太及北海道にて勤め、東京で病死
羽山光和妻千代の墓
C加波山事件関係者之墓   甲8号2側

加波山事件は、明治十七年(1884)九月、自由民権を求めて茨城加波山で16名が武力蜂起した事件。16名中12名が福島県人で、この墓にある5名のうち三浦文治、横山信六2名が会津出身です。(他3名は琴田岩末、小針重雄、天野一太郎)
三浦文治(耶麻郡小川寺内、肝煎真部喜一の二男耶麻郡加納針生三浦家養子)
横山信六(会津藩士池上信三の三男、北会津郡北小路後塩川住)

D馬島瑞園・妻楽子之墓 甲9号12側5番 
会津藩医、文政八年(1825)若松生瑞延二男号杏雨、戊辰戦争に従軍あと容保に従う、明治四年一時大蔵省に勤め、後書画古銭鑑定の大家となる。
父瑞延の墓は乙6号3側11にあります。
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