根岸善性寺(越智松平氏菩提寺)

芋坂善性寺 荒川区東日暮里5−41−14
JR日暮里駅南口から王子街道(線路に沿って)を上野駅の方に徒歩5分です。もっとも、王子街道が在るなんて今回初めて知りました。

善性寺山門
本堂は、前に二本の桜、後にはふたつの真新しい高層ビルを従えているように建っています。
本堂
善性寺門前の団子屋
善性寺の門前から谷中墓地へのぼる坂が芋坂で、此の坂と王子街道との交差点に名物「羽二重団子」の店があり、この前に善性寺があります。上野戦争で官軍に敗れた彰義隊が日光へ遁れるため、この坂を駆下りて来たと言います。あくまでも、善性寺の門前に文政二年(1819)に開かれたという藤の木茶屋、今の団子屋「羽二重団子」の店があります。
右が谷中墓地へ登る芋坂です。
手前の道王子街道です。

長享元年(1487) 開創と伝えられており、江戸時代寛文四年(1664)六代将軍徳川家宣の生母長昌院がこの寺に葬られて以来徳川家ゆかりの寺となり、宝永年間(1704〜)家宣の弟の松平清武がここに隠棲し、家宣のお成りがしばしばあったことから、門前の音無川にかけられた橋に将軍橋の名が付けられたと言います。

本賢院従四位下行侍従弘毅斎墓
(甲斐府中綱重の二男清武の墓)
弘毅斎姓源松平氏諱清武右近衛将監桜邸之支子也母贈従一位長昌院殿大夫人以寛文三年癸卯十月二十日生初有故養於越智氏後奉命復姓為上野国館林城主享保九年甲辰九月十六日病卒享年六十有二葬于谷中善性寺
松平家諸霊之墓(越智松平家歴代の墓)

「区画整理の為墓地整理上松平家当主松平吉修氏の承諾を得同家墓地全部を改葬し同家代々の諸霊並竝に関係者の諸霊四十三霊を合葬工事は昭和三十五年二月開始同年四月完了此の墓碑は古松平恒吉の彰功碑なり」
ここに高須松平四兄弟の一人、石見浜田藩の第三代藩主十代美濃高須義建の三男松平武成「尾張藩主・徳川慶勝の弟で、松平容保(会津藩主)と 松平定敬(桑名藩主)の兄」が合葬されています。

本賢院弘毅斎墓右前の石灯籠

本賢院殿霊廟前燈籠臺 両基
文政六年歳次癸未九月十有六日値遇
霊廟百年遠忌因
命于
霊廟在世中□来仕之世臣百五十八人令献之云

石灯籠の紋
越智松平 揚羽蝶
本賢院家紋
徳川葵
旧濱田藩殉難諸士碑
浜田藩最後の藩主松平(越智)武聡は徳川慶喜の実弟で、慶応二年(1866)の第二次長州征伐、明治元年(1868)の鳥羽伏見の戦い、さらに上野の彰義隊に、それぞれ幕府側として参加し、いずれも手痛い敗戦を重ねた。明治十九年(1886) 旧浜田藩有志によって、この石碑が建てられました。

烈士彰義隊
亀田氏・岸氏之碑

上野戦争で、多くの彰義隊士がこの善性寺に逃げ込んだと言われています。
越智松平家は甲府宰相徳川綱重の二男越智清武(美濃高須義建の三男兄は6代将軍家宣)を祖とする。