青森県上北郡人旧会津藩士、海軍上等兵曹上崎辰次郎の碑が、神奈川横須賀の海上自衛隊第2術科学校の中にある。

猿海山龍本寺(横須賀市深田台10)
京急横須賀中央駅徒歩5〜10分

海上自衛隊第2術科学校(上坂辰次郎之碑)

建長五年(1253)五月、日蓮聖人は鎌倉への布教のため房州南無谷から船出したが、嵐で遭難、一匹の白猿の導きと、公卿村(現在・三春町)の石渡左衛門尉により助かった。このときから、法華経に帰依した左衛門尉はここに御浦(みうら)法華堂を建立、後に龍本寺となった。
ここに、上坂辰次郎が埋葬されたと碑文にあるが墓碑は見つからなかった。

校内にある由来説明によれば「横須賀龍本寺にこの碑を建てた。昭和三年田浦(田浦交番隣)に移してあったものを昭和四十三年五月、第二術科学校に移した」とある

十四歳で海軍に入隊、西南戦争にも参加、明治二十八年三月二日、日清戦争威海衛の戦いに参加、その攻撃の際、発射管の氷結で水雷が発射できず、その責任を感じた上等兵曹上崎辰次郎は同年三月十四日、艇内で自刃した。その時の水雷艇長鈴木貫太郎ら乗組員達が発起人となり、その至誠を叙事して碑を建立した。

諏訪神社

この龍本寺は軍港に近かったせいか、海軍軍人の顕彰碑も多く残されており、海軍中将伊藤雋吉撰、明治二十三年三月建立の顕彰碑も境内にある。

龍本寺へは、京急横須賀駅近くの諏訪神社のまえから急な石段を登りきったところ
海軍二等水兵横見捨吉
三等水兵小西和吉之碑

2術校では、機関、電機、応急工作等及び情報、技術、電子計算機、外国語といった特殊な部門の専門教育や、調査研究を行っている。

海上自衛隊第2術科学校正門

海上自衛隊第2術科学校 横須賀市田浦港町無番地
JR田浦駅徒歩5分 京急田浦駅徒歩15分

龍本寺の裏参道(?)

碑文
上等兵曹上崎辰次郎君碑

君諱辰次郎上崎氏青森県上北郡人旧会津藩士也萬延元年十二月生于岩代国若松城下年十四入海軍酷苦励精技術大進
明治七年航台湾従征藩役十年西南之役起君乃乗軍艦討賊兵十三年任下士官十九年新造軍艦浪速於英国成君被撰為回
航委員至英国乗之而帰廿二年叙勲八等無何任上等兵曹廿七年叙勲七等賜瑞宝章是歳征清役起時君在第六号水雷艇慨
然決意曰吾欲誓死以報国恩十月航戦地従常備艦隊占領花園口十一月略大連湾攻旅順口屡々有功廿八年二月我軍攻威
海衛敵艦隊拠劉公島以水雷及防材鎖港恃険要而防戦数日不能遽抜同月三日夜第六号水雷艇乗月明迫港口敵知之砲撃
甚烈而君自苦冒弾雨而破防材通航路以是翌夜水雷艇隊得進入港内襲撃敵艦隊轟沈定遠等二艦此夜第六号水雷艇亦在
隊中冒砲撃而迫近鎮遠飛弾如雨注中艇者六十餘弾将射出水雷粉砕敵艦何計巌水閉管妨碍発射自是君憤慨不巳更期大
功自慰十二日敵艦隊力屈遂乞降三月和議再起清使李鴻章発天津君時在威海衛港聞之而知戦機既去亦不可為遺憾不自
禁以此月十四日従容自刃艇内歳丗六艇員火化之帰葬横須賀龍本寺君為人沈毅義胆処事綜密克耐艱楚常尚節義至誠奉
公服軍務廿有二年於茲励精如一日威海之襲撃不奏効因巌冬結氷所致於君何有然哀心不能自安負責謝過以死矣可勝歎
惜哉頃者故旧捐金樹碑余甞長第六号水雷艇懐旧殊切乃為君叙其事為之銘曰
至誠奉公 孰若其忠 偉績将奏 孰妬其功 憤慨難禁 視天夢々 
鬼哭神泣 烈士致躬 大書深刻 其碑穹隆 嗚呼崎氏 英名無窮
                     海軍大尉正七位勲六等功五級 鈴木貫太郎選

海軍上等兵曹上崎辰次郎之碑
海軍中将従三位功三級男爵伊藤雋吉君題碑

台座
建碑及遺族慰問
資金義捐者
海軍将校以下有志
 一千十五名
通常有志七名
発起人 海軍大尉鈴木貫太郎
三十七名