横須賀市西浦賀3丁目叶神社裏山
京浜急行浦賀駅より久里浜行きバス紺屋町下車
西叶神社管理地文覚畑まで徒歩10分

穴澤家之墓

碑文
穴澤家者旧会津藩士也慶応戊辰役後有故移居於浦賀于時明治三年也 
明治四十四年二月建之
與十郎命 大正元年八月一六日歿

穴澤與十郎、旧姓小林繁之助、林砲兵隊寄合組にて鳥羽伏見の戦いに参加、戦後高田善行寺にて謹慎、黒谷会津藩墓地明治四十年修理・募金の発起人に名がある。

鹿目家之墓

碑文
鹿目家ハ旧会津藩士也、明治三年当浦賀町エ移住ス、旧墳墓は岩代国若松市南町真宗明栄寺在リ当時ノ戸主鹿目常吉ハ幼名ヲ幸之助ト云ヒ字ヲ忠屋ト稱ス

戊辰の役、進撃隊三番炮組、高田高安寺にて謹慎後、明治三年穴澤與十郎を頼り浦賀に移住、銘茶陶磁器商稚松軒を営み今に続く。海軍少将鹿目善輔は常吉の孫。

文覚畑への道順(東福寺の境内・墓所を通させて戴く)
中央銅葺屋根が叶神社、上の建物が東福寺、山の頂上右手側が文覚畑
浦賀文覚畑(会津藩士のお墓)

碑文
橋本家ハ旧会津藩士ナリ明治維新後浦賀ニ移住ス
猪之多命 明治十年五月八日肥後国大開山ニ於テ戦死ス
大正元年十一月十二日建之

橋本猪之太(猪之多)
戊辰の役、進撃隊二番炮組、橋本猪立にて高田高安寺にて謹慎
西南戦争時は警視局警部補心得。五月八日戦死(塩谷官軍墓地、八代市塩谷町納骨堂)

③頂上お寺の墓域を出て右手、
緑のフェンス沿いに進む

④左側、文覚上人の庵跡

②階段を登りきる
①東福寺本堂左手前の階段を上がる
東福寺本堂

西浦賀の総鎮守
叶神社 横須賀市西浦賀1丁目1−13
紺屋町バス停徒歩2分

旧会津藩士の墓域(文覚上人庵跡石柱の奥)
左から鹿目家之墓、穴澤家之墓、
橋本家之墓

浦賀鹿目家(鹿目茶舗)に松平容保公の和歌が残されている。

冬の日浦賀に来たりて 容保
此の里はのどけき春の 心地して 
ふゆこそさらに 思わざりけり

橋本家之墓
東福寺山門

鹿目家分家墓

江戸幕府から御朱印地二石をたまわり、歴代の浦賀奉行も就任すると必ず参拝に訪れたという格式ある曹洞宗のおてらです。本堂には江戸時代中期を代表する画家・酒井抱一の描く大きな亀の絵馬があります。 境内の中段にある観音堂には「海難除けの観音様」が安置されています」浦賀行政センター市民協働事業・浦賀探訪くらぶの「案内板」より

延命山東福寺、横須賀市西浦賀2-2-1天正十九年(1591)、海宝院三代一機直宗が中興開基
叶神社から徒歩3分

養和元年(1181)、京都高尾山神護寺の僧文覚上人が、源頼朝の旗揚げに、源氏の再興を祈願して、石清水八幡宮を勧請したことから始まり、その願いが叶ったことから「叶明神」の名が与えられた。此社の後の山を文覚畑と言い、文覚上人の旧庵の所と言われている。この庵跡に会津藩士の墓域があります