清泰寺(見性院の墓所)

慈了山覚源院清泰寺 さいたま市緑区東浦和5−18−9
JR武蔵野線東浦和徒歩10分 氷川神社の左側を進む。右側を通って行ったため、入口までお寺を一周してしまいました。

氷川神社から来て左側、清泰寺入口曲り角
清泰寺の石門
本堂
開山は慈覚大師円仁(延暦寺三世座主)と伝えられて、武田信玄の息女・見性院の墓があります。
清泰寺には、非公開の市指定文化財の有泉勝長木碑と見性院霊廟三具足があります。
「この文化財をもう少し詳しく知りたい方に」
見性院の墓所
見性院は穴山梅雪(武田武将)の妻で、後梅雪は徳川家康に仕えたが、嗣子無く夫の死後、家康の知遇を得、武州安達郡大牧村千石を采地として与えられました。二代将軍秀忠の子幸松が三歳の時、故あって見性院が養育したとも云われており、七歳の時秀忠の命により高遠城主保科家の養子となったのが、後会津二十三万石の藩主の保科肥後守正之です。
見性院の墓は非公開となっています。
墓所門扉にある葵紋
見性院は、大牧村の清泰寺に葬られ、保科正之は霊廟を造り手厚く祭り、会津藩は数度にわたり見性院の墓を整備したと言われ、後に霊廟が倒壊、その門扉が墓所に移されて今に残っていると言われています。会津藩は元禄九年(1696)、正信(正容)の時代に姓の松平と共に、三つ葉葵の使用を許されました。この扉の紋は葵紋ですが、十三葉の徳川葵紋と云われるもので、会津葵ではないようです。
大間木氷川神社
武蔵国一宮氷川神社の旧本殿、寛文七年(1667)二月建立されたものです。清泰寺にはこの神社の左側を通ります。