富津正珊寺(会津藩士のお墓)
栄胤山正珊寺 富津市西川1348
JR内房線青堀駅,富津公園行新井バス停徒歩10分
(但しこのバスは日中は1時間に1本と極端に少ないので注意が必要です、青堀駅からタクシーで千円前後だと思います)
正珊寺本堂
正珊寺は旗本小笠原氏の菩提寺で、同氏の墓地は富津市の史跡に指定されています。この小笠原広重は、もともと今川家臣で本多忠勝の誘いにより家康に仕えた、法名は栄胤。広重の長男小笠原安芸守信元が小田原征伐の軍功により上総周准郡二千五百石を領し、法名は正珊。
正珊寺入口
会津藩士らの埋葬について、小笠原家から「何で他藩の墓地を受け入れたのか」と随分、叱られたと伝わっていますが、このお寺は殿寺と呼ばれており、江戸末期まで檀家を持たない寺院で、弘化四年(1847)後の富津・新井・西川・川名、周准郡各村は忍藩より引継いだ会津藩領となっており、会津藩は、西川の土地を正珊寺に与え富津詰めの会津藩士の墓地として定めたといいますが、大戦中の火災で本堂等全て焼失し、記録が何も残っていないとのことです。
はるか彼方が会津藩士墓地
小笠原家墓地から
会津藩は弘化四年(1847)から嘉永六年(1853)まで、富津市富津と竹岡地区の二カ所で江戸湾防備についています。
以前は墓地の中央部分に「コの字型」に在ったが、墓参する人もほとんどなく無縁仏として、平成十一年(1999)の本堂改築に合わせ、現在地に移したとのことです。
戸枝為興娘之墓
山口道政 娘
木田為保、同七之助墓
辰野宗光之墓、宗光妻、宗光娘
辰野宗光 嘉永三戌年八月廿五日
知玉院臨阿了幻大姉 嘉永三戌年九月八日
珠光院登阿妙垂童女 嘉永六丑年六月廿一日
会津 伊波重定妻墓
嘉永元戊申年十月十四日
石澤義則墓
誠諦院節義日進大居士
嘉永五壬子年三月晦日没
石澤義則妻丹羽氏墓
宣示院妙道日慈大姉
嘉永元戊申年四月二十七日
石澤義則の三女(妙華童女)は対岸の
走水円照寺に埋葬されています。
島影礒治妻墓
西郷順天女墓
嘉永三戌年七月九日
□□荻右衛門興娘
□□光禅童女
田原重義三女墓
山口照二 男
智本了全童女
貞鐘影禅童女
合同碑と思われる台座が残っています。中段に会津藩、下段に名前の一部がみえます。
田中玄朝 二女
忠幸院寛孝儀剣居士
明治四年辛未歳二月十九日
石沢氏、後から埋葬したものか
小笠原家墓地
小笠原家墓地は本堂の左側に入り直ぐ右手のあり、会津藩士墓地は後方左手奥にあります。
重なっているので、お一人の側面しか判りませんでした