募金趣意書
京都黒谷の丘老松鬱として茂り翠陰の蔽ふ所墳墓ならざるなく而して其の清掃せられて繍洒しへきものあり。然るに紫雲石の後方に一区あり、敢て狭少ならさるも累々たる碑石多くは傾斜し甚しきは其礎石さへも散逸して草茅徒らに蔓り、恰も無縁塚の観をなし人をして轉た凄愴の情を起さしもるものあり、之を会津墓地と称す。此墓地や、旧会津半京師守護職の時代に開かれ、彼の元治甲子の役九重を守護して朝敵を撃退せし際、名誉の戦死を遂けたる我近衛将士を埋葬せる所なり。明治維新に至り順逆名を異にし、一藩殆んと瓦解の不幸に遭ひ藩人四方に離散したる結果、此黒谷墓地の如きも之を願みるの暇なく、自ら其荒廃に委するの外なかりしか。茲に会津小鉄と称する故上坂仙吉氏あり、曾て我藩の恩義を受けたるを徳とし、独力其酒掃に任し忌日毎に香花を供して幽魂を慰め多年之を怠らさりしか、往年不帰の客となれり。その後、矢ッ車大西松之助氏、小鉄の志を継き、西雲院の住職家田真乗師等と心を協せ力を合せて墓地の清除並に忌日の法要を営み、在京阪神等の旧藩人を會して忠魂を追吊し来り、漸くにして今日の現状を保つを得たり。先年家田住職其他縁故者の発起に依り、年々追吊の法會を執行して、永く祭祀を絶たさる計画を立て、義損金募集の挙ありしも不幸にして其目的を達する能はす以て今日に至れり。我等旧藩人たるも、王事に殉したる我父兄の忠魂毅魄を留むる此黒谷墓地を等閑に付して其荒廃に帰する豈に我等の心ならんや、况んや旧藩の碌を食まさる人にして尚此義侠を以手て墓地を保存し祭祀を営み来りしに対し中心慚愧の念なき能はず。
尚ほ前記黒谷墓地の外、鳥羽伏見等に於ける慶応年間の戦死者を埋葬せし各墓地は次第に埋没して其形跡を絶たんとする恐あれは、此際を期し之に修理を加へ永く保存するの必要を認め併せ之を決行せんとす。茲に下名の者発起して、広く同人諸君に訴へ、此名誉ある会津墓地を修理保存して、其祭を永遠に伝へんとす。是れ我等の先人に対する義務なるを以て諸君が欣んて賛成義損せらるるを信し、敢て此計画を以て諸君に計り其成就せんことを冀ふ。
謹白
明治三十九年七月
発起人
池上四郎 石井 収 六角謙吉 楡井二郎
長谷川清治 畑 一岳 長谷川太郎 西 忠義
丹羽五郎 新妻駒五郎 沼澤七郎 小野源次郎
大竹源五郎 大場義衛 大西松之助 潟洲 徹
横山吉四郎 辰野次郎 高木盛之輔 高島虎之助
中村六郎 中根 明 中村竹蔵 中根 直
長岡清治 内村直俊 野口坤之 野出銷四郎
日下義雄 山川徳治 家田真乗 町野重世
松本時正 藤澤正啓 藤田重守 穴澤與十郎
坂井次永 木村丑徳 結城平五郎 雪下 陽
水島 純 三橋康守 三橋勝到 高野源之助
下平 到 両角三郎 望月與三郎 高野源之助
一、黒谷墓地工事は、地均し及石碑の傾き等を直す。
周囲の土止め及生垣を設ける。
入口の位置を中央に移し新たに門柱を建設する。
伏見淀鳥羽に於ける戦死者の氏名碑を建設する。
同墓所の道しるべ石標を設ける。
二、伏見淀鳥羽の墓所は旧幕人の組織せる十七日会と協議を要するに付未定。
1、十七日会とは、京都府知事大森鐘一氏外数十名旧幕臣の会合団体。
平成十年度京都会津会会報「京都黒谷会津墓地の明治四十年に係る
修理・募金の記録」より引用