慶応四年正月三日(新暦1868年1月27日)、京都郊外、鳥羽街道沿いの城南宮附近の薩摩藩兵と京に進軍する幕府軍とが衝突、竹田、伏見でも軍事衝突がおきる。戊辰役の発端となった小枝橋から桃陵中学校内にある伏見奉行所跡まで南下しました。
1 旧小枝橋戦跡、 2 鳥羽離宮跡戦跡、 3 下鳥羽戦跡
4 御香宮戦跡、 5 伏見奉行所跡 6 桃陵中学校内維新戦跡
京都市伏見区中島秋ノ山町、千本通と城南宮道との交差点北側(旧小枝橋2002年撤去)
近鉄京都線竹田駅より1.6k徒歩25分、
竹田駅はタクシー乗場あり。
バスは極端に少ないとの事でした。
慶応四年(1868)正月三日、京都に向った幕府軍と薩摩兵の間で戦いが始まった戊辰役の発端となった鳥羽伏見戦跡
鳥羽離宮は平安時代後期に白河上皇が京都の南区鳥羽に造営 した離宮で、跡碑は鳥羽離宮跡公園の築山の小高い丘にあります。
碑文
鳥羽洛南之名勝也 白河帝時建離宮于此 鳥羽帝時増修
列聖時時
臨幸游豫載在史牒不知其廃于何時土人今猶指秋山一帯地曰城南離宮秋山
東有真幡寸神社旧称城南神鳥羽氏世掌其祭祀明治紀元正月官軍大破徳川
氏兵於鳥羽街道於是鳥羽之名益著矣時徳川慶喜在大阪城遣会桑等兵犯京
師自鳥羽伏見両道而進薩長等諸藩兵奉 勅守両道鳥羽則薩藩当之三日日
暮接戦于秋山下奮闘移時賊遂潰走伏見亦同時開戦亦大克之官軍追撃南下
慶喜倉皇東還尋謝罪反正其後雖東北有梗命者旬月之間悉帰平盪豈非此一
戦為之端耶距今已四十有五年矣 皇治休隆文明之化日躋桑麻被野民生安
富欲問当日戦争之跡父老希復存者今真幡寸神社社司鳥羽重晴君与地方有
志之士胥謀以斯後維新基業所由定将立石以表遺蹟又以見 聖代恩徳之深
厚也見徴余文余□此挙乃不敢辞叙其梗概又併識往古離宮故事是亦考古者
之所宜致思
明治四十五年二月 貴族院議員従三位勲二等小牧昌業撰
平安処士 山田得多書
発起人
真幡寸神社社司 鳥羽重晴、 仝社掌 鳥羽重節、
氏子総代 大橋三郎兵衛、 高橋五左衛門、竹内源左衛門、
小山浅次郎、西井栄次郎、山本市之助、長谷川末吉
京都石工 武輪角次郎刻
京都市伏見区中島御所ノ内町鳥羽離宮跡公園内北側
近鉄京都線竹田駅より1.6k徒歩25分、鳥羽伏見戦跡石柱より3分
バス、流しのタクシーはまったく見かけず、移動については,徒歩か無線タクシーを依頼するのが賢明。
無線共同配車センター(075)601−3900
3 下鳥羽戦跡
京都市伏見区下鳥羽南三町、
京阪電鉄伏見桃山駅2,2K,
法傳寺から鳥羽街道(千本通)200M下る。
京都市伏見区御香宮門前町
京阪電鉄伏見桃山駅からは、近鉄桃山御陵前駅を通り徒歩5分
内閣総理大臣佐藤栄作書
明治百年記念として御祭神壱千七百年祭奉賛会が奉納したもの
御香宮東側台地に陣を布いた薩摩砲兵が、ここから伏見奉行所に砲撃をする。
御香宮の標高約90m一方伏見奉行所の標高約60m,標高差約30m、距離約500mあった。
5、伏見奉行所跡
京都市伏見区西奉行町桃陵市営住宅入口
団地の西側、51〜52号棟の入り口
近鉄京都線桃山御陵前駅300M徒歩5分、御香宮より徒歩8分 昭和四十三年十一月 京都市
京阪電鉄伏見桃山駅500M徒歩8分、伏見奉行所跡徒歩3分
維新戦跡、竹田街道車石、みちしるべ等石碑が校門の正面の築山にあります。
明治維新の際,戊辰戦争の幕開けとなった「鳥羽伏見の戦い」の跡地を示す石碑です
昭和十一年建立
桃陵中学校のグランドの中にあります。
校北の桃陵団地から,本校のグラウンドまでが伏見奉行所跡だったことを記念して建てられたもの。
昭和四十六年九月二十一日建立
石碑は全て学校施設内にありますので、学校に許可を取ってください。教員室は正門左、北側校舎にあります