天王寺一心寺(会津藩士のお墓)
坂松山高岳院一心寺 大阪市天王寺区逢阪2−8−69
JR天王寺駅より徒歩10分
一心寺入口
開基文治元年(1185年)法然上人、法然上人二十五霊場第七番札所
元和元年(1615)大坂冬・夏の陣では徳川家康が茶臼山一帯、なかでも一心寺を本陣とした。年中休み無く「おせがき」のできる寺として庶民に親しまれる
本堂
一心寺は昭和20年3月の戦災で全焼、その後、昭和41年に再建。
入母屋鎌倉時代様・十間四面、総檜造り
開山堂
文治元年(1185)の春、法然上人は四天王寺西門の荒陵(あらはか)と呼ばれた地に庵を結び「荒陵の新別所」として一心寺の基礎を作った。昭和20年戦災に罹り、昭和48年再建、佛師・松久朋琳師作の法然上人坐像が奉安されている。
東軍戦死者招魂碑
鳥羽伏見戦東軍戦死者の招魂碑
明治三十一年一月六日在阪旧幕臣建
泥舟 高精一書
会津藩士墓地
鳥羽伏見之戦、大坂之陣の戦死者、又病死者の會津藩諸士墓地です。会津史談57号(宮崎十三八)
會津藩諸士之霊名大阪一心寺資料参考)
開山堂左側を入り、道なりの左手で丁度本多忠朝墓所の裏手になります。
鍵の手に墓碑が13基あります。
右奥から
義誠院昇月自観俊香居士
慶応四辰正月六日
会藩原源右衛門俊秀
鳥羽傷一心寺死
小池勝吉墓
会津藩白井砲兵隊組頭
慶応四年正月五日
山城国鳥羽於テ戦死于時年二十三 弟小池漸建
常信院殿等覚自明居士
(京都黒谷慰霊碑)
会津藩士 高橋金兵衛墓
慈光院淨月清雲居士
慶応四年正月三日伏見戦死行年四十二歳
(京都黒谷慰霊碑)
会津藩士 山本慶助墓
淨明院誠心義順居士
慶応四年正月三日伏見戦死行年二十八歳
(京都黒谷慰霊碑)
柴□(雁?)助墓
元和年中於大阪(大坂夏の陣戦死?)
豆州韮山江川太郎左衛門家臣
木本左門墓
会津宰相家臣
慶応四年正月三日 戦死於伏水
放雲院到岸淨刹居士
(京都黒谷慰霊碑)
井上直忠墓
白井五郎太夫墓
正月五日戦死鳥羽街道行年三十七
明治三十六年七月
男 白井新太郎建之
明心院殿義専欣淨居士
(京都黒谷慰霊碑)
保科臣 原治兵衛墓
慶応元乙丑年四月 後裔九人相共建之
大坂夏の陣戦死、後裔会津藩士九名により建立
会津世臣原嘉平治、原政之進、原彦左衛門
原早太、同直鉄、甲斐八郎陣代原八四郎
原彦松、原萬次郎、原源次郎
仁徳院義齋直忠居士
会藩士 三瓶鉄蔵勝直墓
慶応丁卯三年十二月十三日
芳義院洋諦勇勝居士(病死)
(京都黒谷慰霊碑)
会津藩士 有賀武次郎墓
善岳院諦道真順居士
慶応四年正月三日伏見戦死行年二十九歳
(京都黒谷慰霊碑)
会津藩士 黒河内只四郎墓
本多出雲守忠朝墓
本多出雲守忠朝は、徳川四天王の一人、本多忠勝の第次男、関ヶ原の合戦に武功をあげ大多喜五万石に封ぜられていましたが酒を過したため大坂夏の陣(1615)で戦没。死に臨んで深く酒弊を悔い将来酒のために身を誤るものを助けんと誓って瞑目したと伝えられています。爾来、酒封じの神さまとなった。墓碑は、元和二年(1616)に建立された。
一心寺南門
家祖名直忠弥金右衛門 元和元年大坂之役従保科公五月七日戦死天王寺口蕁一心寺時公奮戦死者七人即其一也慶応紀元七月廿九日会津井上直徳建
昇龍院義山時忠居士
慶応四年正月三日伏見戦
死行年二十二歳