十二代桑名藩主松平定敬(容保弟)の墓
桑名藩主高猷(十一代伊予桑名定和の長男)が病死により、美濃高須藩十代美濃高須義建の七男定敬が、高猷長女初姫の婿養子となり桑名藩主となる。
大心院殿恭蓮社善□□晴山大居士
公諱定敬幼称□之助晩号晴山高須候松平義建之第七男以弘化丙午生年甫十四出継桑名藩主英哲公之後襲封任越中守元治甲子以特命補京都所司代與一橋公会津候協心大盡力於国家既而事與志違戊辰難起蒙譴屏居壬申春被特赦公深感激報恩之念極切矣及西南乱起公乃密奉 朝旨有所盡力以特旨叙正五位賜恩賞品爾後累陞叙従三位二十七年補日光東照宮宮司無幾辞免三十四年叙正三位四十一年罹病七月二十日特旨叙従二位其明日薨享寿六十三越二日以礼葬于染井塋域公天資明毅善納人之諌自少脩文講武雖居劇職之際亦未嘗怠其講習日課之業晩年愛音楽特修禅有所造詣配松平氏先逝側室松平氏挙男曰定晴襲子爵定教公之後

  染井霊園
(桑名松平家篇)

染井霊園 駒込5−5−1
地下鉄三田線巣鴨徒歩15分(霊園管理事務所迄)
巣鴨のお不動さんから中山道(17号白山通り)を挟んで反対側にある東京都中央卸売市場豊島市場の巣鴨駅寄りの道を入り突当りが染井霊園の塀です。右に行くと染井霊園の入口、左にいくと慈眼寺に行けます。

染井霊園は、江戸時代、建部家と藤堂家(ごく一部)の下屋敷で、わが国初の公営の公共墓地で、管理事務所の人の話によると、明治新政府の神仏分離政策により神葬祭が増えたが、埋葬の場所がなく、また教会も墓地の所有がなく、埋葬場所の確保が急務となって、霊園内に神式の墓地やキリスト者の墓地、外人墓地が多いのもこうした理由とのことでした。(管理事務所の方に30分以上もお付合い頂いてしまいました)
事務所で霊園案内図を入手すると便利です。(寸志、幾らかの寄付金必要)

@桑名松平家墓所
染井霊園会津関係篇へ
A若松賤子の墓    B高嶺秀夫の墓
C三橋家の墓      D寺本義久の墓
@桑名松平家墓所

松平家 桑名藩
伊勢桑名松平家初代伊予松山久松定勝の三男定綱を祖とする

従二位松平定敬之墓
定敬夫人初子之墓(初姫)

一心院殿光蓮社明誉専念遍照大姉

夫人諱初子正三位松平定敬公配故桑名城主英哲公長女母諱貞子故松代城主真田幸良公之長女安政四年一己二月十日生於江戸八丁堀上邸明治五年二月二十一日結婚挙二男正雄日敏雑皆殤明治三十四年二月三日逝于東京湯島邸越五日以礼葬於染井塋域
正四位子爵松平定教之墓

観心院殿高誉不染寛卿大居士

子爵幼名万之助故桑名城主英哲公庶長子以安政四年四月二十三日生明治二年八月承先□敍従五位任桑名藩知事四年七月藩廃十七年錫子子爵任式部官二十四年辞免三十年陞敍正四位此歳為貴族院議員三十二年五月二十一日病逝享寿三十四某二十五日以礼葬染井塋域

松平夫人鈴子之墓

松寿院殿鈴誉鉄心覧操大姉

夫人諱鈴子故四位子爵松平定教公配故宮内少輔従三位子爵山岡鉄太郎二女明治元年八月五日生於東京小石川鷹匠町十六年二月四日成婚挙一男三女長女栄子存而余皆殤明治三十五年七月十一日以病逝越五日以礼葬於染井塋域

松平高子之墓
松平保子之墓

淨光院殿円満明保大童女
明治三十一年四月十九日卒

高照院殿顕誉貞曜大姉
大正三年十月二十六日卒
石灯籠(火袋が壊れてしまい、、残念です)
桑名松平家家紋 星梅鉢