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@南摩綱紀の墓と碑 A石川暎作の碑 B羽山光和の墓
C加波山事件関係者の墓 D馬場瑞園、妻楽子之墓
乙区
E内村直義の墓 F赤塚武盛の墓 G馬島・小松家之墓所
H日下義雄之墓
乙4号2側で乙4号乙2側ではないので注意、同じ様な場所があり間違いやすい。
南摩綱紀(甲1号7側2番)撰文の「内村君碑」が右手に建てられています。
会津藩士、芹沢寛治の子、西南の役で警視庁一番隊長として田原坂にて戦死。
斜め後ろにEの内村家之墓があり、この辺りは霊園の端でひっそりとした場所で、赤塚家之墓の脇に赤塚権少警部碑が建っています。
会津藩士、赤塚治定の子、嘉永四年(1851)会津若松生、戊辰戦争に従軍する。あと斗南に移住、明治八年(1875)警視庁勤務、西南の役に従軍、勇名全軍に轟かせる。
馬島瑞謙
諱常謙字子謙号石舟妻安藤氏
馬島瑞延、 会津藩医師、瑞延の長男が瑞謙で、次男が瑞園
乙8号7側の一番奥の凹み地を挟んだその奥で探すのに苦労する所です。
嘉永四年(1851)会津若松生、父医師石田龍玄、鳥羽伏見の戦いに参加、函館五稜郭でも戦う、後井上馨に従い、欧州に行く、初代長崎県知事になる。弟和助、白虎隊に加わり飯盛山で自刃する