東照宮青銅灯篭の話
(会津藩保科正之が奉納した二基の灯篭について)
左は灯篭の各部分の簡単な呼称です。
上野東照宮の百九十五基あると言われる石灯籠の並んだ参道を奥に進むと青銅灯篭四十八基があり、社殿に向って左側に在る御水舎の手前にある五基のうち二基が会津藩主保科正之が奉納したものと言われています。。慶安辛卯四月十七日 會津従四位上左近衛兼少将源朝臣正之と銘があり、外二基は伊賀少将藤原朝臣高虎、筑前太守従四位下侍従源朝臣忠之 の銘があり、一基は基壇(台座)のみです。
下左写真では、一番左と右奥、右は反対側からの写真で左手前と右奥の二基が会津藩主保科正之が奉納したと言われている青銅灯篭です。
二基とも笠部分に葵紋が入っていますが、笠の形が異なっています。
テッペンの宝珠が欠けている灯篭には、笠の下にある連子(かざり)に左三巴紋が入っていました。保科家の家紋は角九曜ですが、寛永十三年に正之が高遠の貴船神社に寄贈したといわれる道具(馬連・御弓等)には、右三巴の紋が入っています。
一基の火袋には葵紋、もう一基の火袋には家紋は入っていませんでした。
二基とも銘、中台と竿に入っている珠紋帯(かざり)は同じ模様です。
基礎部分の反花(花びらのような模様)その下の格狭間は同じ模様ですが、一番下の基壇部分が、円形と六角形でまったく違いました。
参道に面している三基の基壇は同じで、後ろの青銅灯篭の基壇と基壇だけ残っている二基の模様はまったく同じでした。
上左側写真の青銅灯篭は、ほぼ完全に揃っていますが、宝珠のない青銅灯篭は中台・竿は会津藩主保科正之が奉納したものですが、その他の部分は外の灯篭を組合わせて一基作ったと思われ、不明分は境内のほかの灯篭に使われているかもしれません。基壇部分については、当初丸形なのか六角形なのかは不明です。もっとも関東大震災で参道の灯篭はほとんど滅茶苦茶に倒れてバラバラになっていますから、よく此処まで整備されたと思います。