泉谷山大円寺 杉並区和泉3の52の18
井の頭線永福町駅徒歩10分 井の頭通りを横切り、松ノ木通りを方南通に向かい1本道です。
上総飯野藩祖保科正貞は武田の家臣保科正直の三男で、高遠藩祖正光(長男)は会津保科正之の養父です。
慶長八年(1603)赤坂溜池辺に徳川家康が建立、開山は武田信玄の弟、諦厳桂察和尚、明治四十一年現在地へ移転。上総飯野藩保科家、薩摩藩島津家の菩提寺となっています。
飯野藩保科家墓域
武田信玄家臣保科正俊子の保科正直は、徳川家康に仕え下総多古に一万石で配され後、信濃高遠に移り、正直の子正光は、将軍秀忠の子正之を嗣子として預かった。保科正之は会津に転封となり、正直三男の保科正貞(義叔父)に保科家累代の家宝その他を譲って、保科家の嫡流は、この飯野藩祖となる保科正貞が引き継いだ形となった。
中央が飯野藩主の五輪塔
長元院殿清信授法大禅定□
藩祖正貞の生母多却姫の墓(正貞母)、父は久松松平俊勝、母は於大で家康養女となる。
二代飯野藩主保科正景墓
上総飯野保科家の藩主埋葬地は、九代正丕まで二代正景を除き杉並大円寺にあり、二代藩主正景のお墓は淨信寺( 千葉県富津市青木887)にあります。
元禄十三年庚辰大
泰嶽院殿前従五位真誉帰元大居士
五月十有六日
青山墓地にある保科家墓地(1種ロ12号30)
右 保科正益墓(十代藩主)
高岳院殿徳雲惟馨大居士
明治廿一年一月二十二日卒
左 保科節子之墓
正益室 安住院殿深禅愛楽大姉
明治三十八年十二月七日卒
会津藩家老萱野権兵衛が会津での戦いの責任を引き受け明治二年五月に切腹したのが、飯野藩保科邸だったとのことです。
澤田美喜は正益の孫娘、美喜氏の息子の嫁さんが由紀さおりの姉の安田祥子さんです。