市谷源慶寺(思案橋事件)

源慶寺東京都新宿区富久町9-23
地下鉄丸ノ内線四谷3丁目・新宿3丁目徒歩10分

新宿3丁目からは、靖国通りを正受院の前を通り1本道です。
富久町交差点の南側角地、入口は3ヶ所いずれも登り坂で境内に入る。市ヶ谷富久町南端の源慶寺南側を東へ下る坂を昔、茗荷坂と言い、坂の周辺一帯が茗荷畑で、坂下の窪地は「茗荷谷」と呼ばれたそうです。

正面に鉄筋コンクリートの特長ある洋風デザインの本堂があります。このお寺に渥美清(田所康雄)の墓があることを知りませんでした。墓の写真撮影禁止と墓所の入口にあったので、変だなと思いながら、ここのご住職とは思案橋事件の話で終ってしまい、家に帰ってから判り、後の祭りでした。

正面入口

思案橋 
思案橋は遊郭で遊ぶか、芝居を見るか、客が思案するところから、その名があったと言われ、思案橋は今東掘留川と共に失われています。
小網町19辺りを日本橋川の対岸冑神社隣の会社から撮らして貰いました。感謝です

事件現場
東京都中央区日本橋小網町19附近
(昔東堀留川が日本橋川に注ぎ落ちるあたりで、
今の日清製粉東京営業所、首都高江戸橋JCT附近)

思案橋事件

この事件は、井口・中原を首謀者とした一行14名は、明治九年(1876)十月二十九日、東京・日本橋の思案橋から出船、千葉県庁を襲い佐倉鎮台兵を説いて「萩の乱」の前原と呼応して政府を転覆させる計画だったが、不審に感じた船頭の通報で駆けつけた巡査4人と斬り合いになり、逮捕され明治十年二月七日処刑された。後年、会津で代議士になった赤羽友春が三人の遺骸を源慶寺に埋葬したと言われています。

そのメンバー14名は、
永岡久茂、井口慎次郎、中根米七、中原成業、能見鉄治(東京府平民)、松本正直(島根県士族)、一柳訪(東京府士族)、木村信二(若松県士族)、満木清繁(鹿児島県士族)、高久慎一(静岡県士族)、山本保之(東京府士族)、高崎政八、松岡忠実、弥三郎(平民)
竹村俊秀・大橋清贇は長州萩で前原一誠連絡役として参加していなかったが、竹村は思案橋事件の翌日帰京し浅草に潜伏している所を捕らえられた。
思案橋事件で処刑された三人の会津士族の墓

会津藩士井口隼人長男
行年二十三歳明治十年二月七日就死

碌々偸生我所慙 年華二十已加三
精心百折不曾撓 報国挺身即是男

井口慎次郎の墓

会津藩士高津平蔵三男
本姓樋口俗弥忠三良 明治十年二月七日就死(本名高津仲三郎)

ことし阿らはまた魁ん国の為わか魂をこゝに残して

中原成業の墓

竹村助兵衛長男
俗称幸之進 行年三十二歳 明治十年二月□□就死

辞世 
白露と消る命はおしまねと
なを思はるゝ国の行末

竹村俊秀の墓
証券取引所の前にある、冑神社の神紋です。