青山玉窓寺(会津藩士のお墓)
青山忠成の息女死去後、忠成内室がその菩提のため青山家下屋敷に開創、天和二年紀州家境に移転後、明治十二年青山御所用地となり現在地に移転。
玉窓禅寺山門
崑崗山玉窓寺
勧進開山は青松寺八世伊天
玉窓寺本堂
玉窓寺参径
青山霊園側から墓域をみる
会津佐藤氏墓域
本堂を背にして墓域の三本目を右側をに入り、左すぐ。
招魂碑
佐藤操招魂碑文
先考姓佐藤氏諱忠茂一諱継字伯張通
稱操家世仕故会津藩正孝奉軄江戸邸
後祇役京都明治戊辰八月廿五日遂殉
国難時年六十二兵馬之間不能成葬哀
戚何限追奉法號曰華光院譛譽忠意居
士今茲庚辰十月十日以当其十三年忌
辰爰建一片石於東京青山玉窓寺祭之
庶幾有英霊之永托于此不肖劉二謹識
佐藤操 戊辰八月廿五日若松戦死六十二歳
曰華光院譛譽忠意居士 明治十三年十月建立
台座 会津佐藤氏
夏雲妙奇信女
普観童子
明治十三年十月
□青松寺改葬
跡部家累代之墓
老中水野 忠邦弟、
「大塩平八郎の乱」の時の大坂奉行
跡部能登守墓
跡部家臣之墓
佐藤氏源氏車紋
速水家墓域
右、速水累代之墓
左、速水家族之墓
郡上藩士で凌霜隊参謀
速水小三郎の墓碑
誠性院諦岳行道居士 明治廿九年十月葬
戊辰のとき、会津で戦う。