市谷林氏墓地

新宿区市谷山伏町1−15 大江戸線牛込柳町駅徒歩5分
大久保通り常敬寺横から入る道が分かりやすい。

林氏墓地は大正のとき国史跡に指定され、いまは新宿区で管理、毎年、11月の初めの土日2日間だけ公開される。約110坪の敷地に81基の墓碑群が林立している。(日時は新宿区生涯学習振興課に確認してください)
特に林家の四代、五代、八代、十二代は会津院内墓所の三代正容公から八代容敬公までの墓碑の撰文者として会津藩と結びつきは強い。

林氏墓地入口
林氏墓地墓碑群
儒教礼式による埋葬様式の儒墓
改葬により、わずかに八世述斎、九世?宇、十世壮軒、十一世復斎の四代の墓が儒葬の原型をとどめている。
林氏墓地内
上野忍ヶ岡から元禄十一年(1698)、牛込のこの地に改葬された。
@林羅山の墓

文敏先生羅山林君之墓
明暦三年正月二十三日卒

碑文
先生姓林氏出自藤原之流諱忠字子信一名信勝後改道春號
羅浮山人又稱夕顔菴叟父曰林入母田中氏以天正十一年癸
未八月某日産於京洛伯父理斎無子與其配小篠氏相議以養
先生為嗣幼而聰敏長而博学強記該通経史子集百家小説及
本朝之羣書興起儒風発明道学其編著甚多其詩賦文章載在
家集応召奉仁  東照太神君歴仕  台徳院殿  大猷院殿
今大君而賜采地叙法印位移家於江府営建孔堂於別墅恩遭
不薄勤労無怠娶洛人荒川宗意娘即是順淑孺人也生四男一
女長男叔勝字敬吉一名左門早世次長吉幼而亡次春勝後改
春恕字之道號春斎次守勝一名靖字彦復號讀耕子次振娘赴
洛陽適荒川宗長明暦三年丁酉正月二十三日先生病没享年
七十有五葬於別墅良隅謚曰文敏平生事跡詳見年譜行状
 明暦三年丁酉三月中旬       孝子春斎林怒誌
                         門人坂伯元書

A四世、林榴岡の墓

朝散大夫戸部正懿先生林君之墓
宝暦八年十一月十一月病卒
徳翁霊神碑撰文(三代正容) 林信充

B五世、林鳳谷の墓

故従五品國子祭酒正貞林公之墓
安永二年十二月十一日卒
土常霊神碑撰文(四代容貞) 林信言

C八世 林述斎の墓

快烈先生林府君墓
天保十二年七月十四日卒

碑文によれば、明和戊子年六月二十三日生於鍛冶橋内巖邑侯賜邸(伊勢亀山藩邸?)とあり、会津藩上屋敷と近かった事が窺える(八代洲川岸を挟んで向い側)、泣く子も黙る町奉行、鳥居耀蔵は、八代林衝の子。鳥居忠耀のお墓は吉祥寺にあります

恭定霊神碑撰文(五代容頌) 林衝
貞昭霊神碑撰文(六代容住) 林衝
欽文霊神碑撰文(七代容衆) 林衝

十二世 林学斎の墓碑

幕府大学頭従五位下文靖林先生墓銘
明治三十九年七月十四日終卒
忠恭霊神碑撰文(八代容敬) 林昇

試衛館跡

林氏墓地の近くに、近藤勇の養父である三代目近藤周助が開業した試衛館跡があります。試衛館は江戸市谷甲良屋敷にあり、同所に近藤勇邸があったといいます。
大久保通から入ると、市谷甲良町と市谷柳町の境界の路地を南に入る(今の市谷柳町25)

当時近藤勇の邸内にあったという稲荷神社の祠