白金興禅寺(会津藩士のお墓)

大雄山興禅寺 港区南麻布白金6-14-6
都バス北里研究所前(渋谷~田町)下車徒歩10分
北里研究所前横断歩道から蜀江坂を上り、聖心女子学院裏門を過ぎて二岐を右に入る。

興禅寺

延宝二年(1674)開設、開基上杉定勝娘長松院、米沢藩上杉家の菩提寺。
明治になって建物など全部損失したとのこと

興禅寺庫裏
興禅寺入口
萱野長脩之墓

明治二年己巳五月十八日
家老萱野権兵衛は戦争責任者として上総飯野藩上屋敷にて切腹
興禅寺墓域の入口直ぐ左手、毎年五月に追善法要が行われます。

萱野國老敬仰碑

徳川幕府の末 天下大いに乱る 此の時我が会津藩主松平容保公
は推されて京都守護職の大命を拝し 朝廷幕府諸藩の間に立つて
報公の誠を效たす 國老萱野長修命を奉して藩政を執り 三軍を
督し 粉骨臣節の尽す 戦終つて後聖天子我が藩公を寛典に処し
首謀の臣を索む 因つて國老は同僚田中土佐 神保内蔵助と之に
当る  然るに田中 神保は八月二十三日西軍鶴ヶ城下侵襲の日
自刃す 國老罪を一身に負い 翌明治二年五月十八日保科邸に於
いて死を賜い 芝白金興禅寺に葬らる 國老の殉節により主家は
再興し 其の臣は皆罪を免せらる その忠烈凛として天日を貫く
今年 百回の忌辰に当る 不肖その墓に詣て 入つては相 出て
ては将 一死国に殉せし大義を追恭して去る能はす のち墓碑を
巌修しその傍に此の碑を建立し 以つてその大義を不朽に伝えて
世道人心の作興に資す
   昭和四十三年五月十八日
    会津会 会長 柏村 毅

神保長輝墓

慶応四辰年二月十三日
鳥羽伏見の敗戦の責任を負い、三田下屋敷で切腹自刃三十一歳
神保雪子は修理妻、「七年史」を記した北原雅長は実弟

黒河内松斎墓
会津藩長沼流兵学者 
安政五年五月十二日六十五歳歿
顕彰碑

顕彰碑
黒河内十太夫高定号を松斎と稱す 父は黒河内十太夫揮号を節斎と稱す
会津藩長沼流軍学者黒河内家中興の祖 安政五年(1858)五月十二日没
享年六十五才  黒河内十太夫高興号を式部と稱す 松斎嫡男 会津藩四百
石軍事奉行 慶応四年八月二十三日(明治元年1868)戊辰戦争 会津藩
主松平容保公滝沢本陣より御引上げ鶴ヶ城え御入城せんとせしが城の周囲は西
軍にて充満し甲賀町郭門開かず六日町郭門より御入城を試みたり 護衛の将兵
殿様の楯となり進路を開き殿様首尾よく御入城せり 式部も又多くの将兵と共
に戦死す 享年五十三才 墓所 会津若松市 阿弥陀寺
黒河内良(初め八三と稱す)号は盤山なり 最後の会津藩士式部 第三子
安政三年二月(1856)江戸藩邸に生れる十才より三年間藩校日新館に学ぶ
も勉学中戊辰戦争に遭遇し十三才の少年と雖ども藩の護衛隊を編するに当り自
から乞うて之に入り防戦 終戦後伴百悦先生の御指導のもと他の少年達と会津
藩士の遺体の埋葬に従事せり 明治九年十月二十九日(1876)元会津藩士
永岡久茂先生事を起すや之に加わり遂に逮捕拘因せられる(思案橋事件)出獄
後北海道開拓使となる 明治二十年(1887)警視庁警部となり南埼玉郡長
青森 秋田 香川各県警察部長(現県警本部長)を歴任した 明治三十九年(
1906)朝鮮京城居留民長に当選す 明治四十三年(1910)(韓国併合)
退官する 明治四十五年(1912)四月二十日鈴木音治氏等と共に発起人と
なり会津会を発足させ第一回より第六回迄(大正六年)代表幹事を務めたその
間 明治四十五年七月三十日明治天皇崩御の際会津会を代表して宮中に参内弔
辞を奏上した事は我が黒河内家にとって最大の名誉であるので後世に伝える為
此処に記録する    大正十年(1921)六月七日没 享年六十六才
追補
西郷八穂 良(ツカサ)の三才年上の姉
慶応四年(1868)西郷寧太郎(幼年組隊長十八才)
に嫁ぎ同年八月二十三日西郷一族二十一人の集団自決
に参かし自刃する 享年十六才 墓所若松市 善龍寺

黒河内家墓
黒河内良 
大正十年六月七日六十六歳歿
黒河内家之墓

枝玉童子 天明二年寅五月十碑日 
黒河内渾次男
瑞祥院陽林冝春大姉 天保七年申年正月十日
会津黒河内氏
永昌院寿嶽妙延大姉 天保三年辰年十二月十日
会津黒河内氏

会津 山本家之墓

修覚院義山観忠居士 明治元年八月二十三日 季太郎
以下6名記載

会津、山本重明・妻成瀬氏

雄章院俊英祖仁居士、
圓照印心嶺妙覚大姉
没 行年六十六 葬白銀興禅寺
元治二年乙丑二月二十日

岸俊襄墓

岸五郎墓 文久二戌年八月三十日
岸安子墓

為岸家先祖代々各霊菩提

岸先生碑
岸先生諱俊雄会津藩士弘化元年十一月十五日生於若松幼入藩校
日新館修漢学武技兼学蘭書及長遊江戸入開成所就神田孝平究数
学為得業生明治三年開学舎於八丁溝亀島街曰苟新塾教授数学明
治十五年閉塾及門之徒前後三千人後多出名士先是先生仕官於工
部省後転於長野県爾来所在就職鴻爪雪泥居処不定四十一年八月
廿二日客死於北海道小樽享年六十有五男英夫護遺骸埋葬於陸中
釜石港石応寺螢域先生娶中島氏後離婚側室某生一男二女男即英
夫嗣家先生為人□介不覊不與人相容以是才高学遂而終生坎坷不
遇不能大伸懐可抱甚惜也今茲四十五年旧門下生胥謀醵金建碑紀
恩使余撰文余亦受先生之指導者誼不得以不文辞之乃略叙其行實
併銘之曰
 才大不合 東奔西走 門下済済
明治四十五年五月 従四位勲二等工学博士石橋絢彦謹撰
         東京 香渓山内昇書

岸先生碑
佐藤家之墓 
宇顕院仁奏叟了實居士 明治十五年九月一日
作助他五名
佐藤作助(江戸藩邸上屋敷ノ内向屋敷)
会津、野中宗孝妻 二男五郎 四男七郎

妻 文久二年壬戌年八月十五日
二男 同年同月二日
四男 同年七月十四日

野中家之墓

蓮沼氏
明治二十年十月廿八日
宗樹院誠岳良忠居士

記念碑 
昭和廿九年十二月九日改之
舊会津藩醫蓮沼氏
十四世俗名誠造行年四十九 
有志友人廿一人

至誠院義謙英俊居士

会津 神尾英俊之墓
明治十三年十月十八日歿

智鏡院松巌妙貞大姉

会津 神尾英俊妻田中氏
明治二十二年十一月二十一

神尾家墓域
荘田臍斎先生墓 嬬人小松氏墓

南摩綱紀撰文日下部東作書 側面碑文
明治二十二年十月 三平建之
(三平は臍斎甥)

荘田氏石仏

随心院遊支那常通大姉
明治三十七年九月一日卒 齢八十歳

荘田家之墓
先生諱忠坦号臍斎通称半蔵姓源荘田氏父忠重母伴氏
夏は草が生茂った奥の所にあります。荘田臍斎先生墓の右側
荘田家墓域
郡家歴代墓

郡(こおり)家は、萱野権兵衛の子孫の家系。戊辰以降改姓
小笠原藩留学中に十六歳で自刃した郡長政は萱野権兵衛の二男。

郡家 家紋
括菱紋
上杉家之墓
上杉家墓域

上杉家 家紋上杉笹