品川神社(会津藩士海難の碑)

品川区北品川3-7-15
京浜急行「新馬場駅」(北口)第一京浜国道沿 徒歩2分

品川神社鳥居
品川神社境内
文治三年(1187年)に、源頼朝が海上交通安全と、祈願成就の守護神として、安房国の洲崎明神である、天比理乃 ロ羊命(あめのひりのめのみこと)を勧請して、品川大明神と称し、一時東海寺の鎭守と定められ稲荷社を称するが、明治元年に元の名称に戻し、「品川神杜」と改称した
階段を登ると、左に浅間神社、右に御嶽神社、中央に品川神社神殿、右奥に阿那稲荷があります。
冨士塚登口(階段の中途左側)
品川神社富士塚は、明治二年(1869)、北品川の丸嘉講約300人によって造られ、その後大正十一年(1922)に、第一京浜国道の建設のため西に数十メートル移動して、現在の場所に再建されたものです。
阿吽の狛犬を従えた浅間神社

2001年12月18日、品川神社の末社、浅間神社に「くも狛犬」が建立された。
建立者は阿の狛犬を落語家円丈、吽の方は狛研の方々です。

寒緑松本先生碑(撰文塩谷宕陰)

諱重信字實甫通称来蔵、会津藩士松本一之丞三子。会津藩儒官。
天保九年閏四月四日 享年五十歳没
海防のため伊豆七島の巡視に同行、悪天候のため御蔵島航行中遭難した。
品川の吉端岡に碑を建てたものを富士塚移転の時に現在地の移したものです。
七合目にあります。

寒緑松本先生碑文

板垣退助夫妻の墓

板垣退助は、戊辰戦争では鳥羽伏見の戦いに参加、東山道先鋒総督府参謀として会津藩を攻略している。途中乾姓から先祖の旧姓といわれる板垣を名乗る。
那光院殿覧徳道円大居士(右) 
大正八年七月十六日死
慈徳院温良全貞大姉(左)   妻絹子墓
品川神社本殿の裏手。以前ここにあった高源院(今世田谷区北烏山4-30)が目黒川水源にあたる世田谷の烏山寺町に昭和十一年移転したため,板垣家の墓だけ残ってしまった。