杉並西照寺(会津藩士のお墓)

普明山西照寺 杉並区高円寺南2-29
地下鉄丸ノ内線新高円寺駅徒歩5分

西照寺山門
天正12年(1584)日比谷本郷に僧文竜が建立、慶長十七年(1612)芝金杉に移転、寛文五年(1665)芝白金に再興。江戸時代には旗本寺として栄える。
本堂
明治維新のとき失火、建物寺宝総てを焼失、明治10年に再建。明治43年に高円寺南に移転
鐘楼
佐瀬一族の墓域

左正面に佐瀬氏、右・林氏、
右端に松山林君墓碑

本堂左側から墓地に入り本堂裏手の水場手前

佐瀬得所  墓
佐瀬茂舞  墓

行年五十有七 茂舞明治四十年四月十九日卒
舊会津藩士 明治十一年戊寅一月二日卒
新撰東京名所図会に「佐瀬得所翁は舊会津藩士にて、書法の大家たりし事は世人の遍く知る所なり、翁の歿するや、子弟慟哭して其墓地を去らさりしと云ふ」
名は恒、字は子象、通称は八太夫、号を得所・松城
幕末に会津娘子軍隊長となった中野竹子の書の師でもある

佐瀬精一之墓
佐瀬得三之墓

精一 明治二十五年八月廿六日卒 
得三

佐瀬精一は、佐瀬得所の次男、『新潟日日新聞』の主筆・社長を務める。
佐瀬得三は、佐瀬得所の三男、号の酔梅。佐藤垢石が明治四十三年四月に『報知新聞』の入社試験を受けたとき、社内に美術記者として佐瀬酔梅がいたという。佐藤垢石は元報知新聞記者、釣りの名人でエッセイスト。

林信之之墓

明治十一戊寅十月八日卒 舊会津藩士
林松山長男
林信之は佐瀬所得弟で林信之に養子となった林松山の長男

林信明之墓

明治十四年辛巳年十月二十四日卒
舊会津藩士通称武平
林松山は佐瀬所得弟で林信明の養子となる

松山林君墓碑

松山林君歿之明年旧知門人胥謀建碑
明治十七年卯月
東京大学教授正七位 南摩綱紀撰
      石川県士族 江間真書 

南摩綱紀は旧会津藩士、
墓碑は台東区・谷中霊園。

佐瀬得所遺徳之碑(増上寺境内)

港区芝増上寺境内左側にある経蔵右側奥。
明治十一年戊寅四月、前田利嗣(金沢藩十四代藩主前田慶寧子 )、寺島誠一郎(貴族院議員・伯爵ら二百余名の義損により建立される。代表は市瀬純次、伊藤締丈他五名。

佐瀬得所遺徳碑銘
遺徳之碑為佐瀬得所翁建也翁書師耳何曰遺徳翁有師道焉既歿而人不能?故也翁会津人幼嗜書甞赴長崎與清客銭少虎江元曦等論筆法後遂航清国遍訪名家質正研鑽二年而還寓東京名振弟子益進其所書脩斎廉節四字會経  御覧賜描金梅花筆一書金龍墨雨笏蓋異敷也翁於是命居曰梅龍書屋張宴於河東一樓大会賓客拝観  御賜席上作鷲龍二字方一丈有餘腕力勁健溌墨淋林檎観者驚歎翁於書無所不学而尤喜欧陽率更趙松雪?與清人遊遂大有所悟能成一家為人楽易真率未甞毀誉人可否時事常以揮麗自娯忘栄枯得喪故其書亦沖澹幽雅無怒張之気脩之態官左院無幾罷去専以教授為業及門殆二千人緋素摺帖満室堆案翁起臥其間日夜不停筆持摸本来者口講指書眩暈腕痺猶不肯休蓋不肯休蓋篤嗜所存不自知其為労然終以此獲疾至不起明治十一年一月二日也年五十七翁既不誇技能誨人諄偲偲俯就泛應終始弗渝以故門人親愛之如父母及歿謀建碑於三縁山麓以予與翁有舊来乞碑文師道之廃也為師者不知所以教弟子為弟子者不知所以学既学矣又不知所以報朝則師弟夕為路人背憎陰詆往往操戈入室鳴呼甚矣風俗之趨汚下凡百学芸莫不皆然惟翁至性所感門人小子没世不忘幾乎有廬家服喪之思語云誨人不倦翁近之詩云無徳不服門人有焉然則翁之與門人道也進乎枝矣
明治十一年戊寅四月  一等編修官従五位重野安繹撰文
善用我法能為人師道進乎技豈惟工書惜余来之遅不及見之噫?
大清光緒四年戊寅夏五月殻旦
欽差出使大臣何如璋撰銘 出使随員沈文?篆額

嶋津美子墓

佐瀬得所書墓碑

青山霊園に佐瀬所得書とあった従五位遠山友禄妻 嶋津美子の墓碑です
墓碑の主、嶋津美子は日向佐土原藩嶋津忠徹の娘で、 美濃苗木藩主遠山友禄の正室。
佐土原藩邸は会津藩下屋敷と隣合わせ、美子姫の書の師だったのだろうか?