園内が広いため、このサイトでは、便宜的に4ブロックに分けて表示しました。
全体図1、ブロック図4(西1、西2、東1、東2)、警視庁墓地図1)
霊園の地番は、種別、号 側 番で表示されますが、番については、特定が難しく表示できませんでした。1種(イ)16号、1種(ロ)16号、1種(ロ)21号、2種(ロ)16号についてはブロックを跨っていますので、注意してください。なお、間違い・訂正等が必要な個所などありましたら、よろしく御指導お願い致します。@ 索引(名簿リスト)A 墓所番地を載せてあります。
青山霊園の歴史
明治初年、篠山藩主青山家の分家、美濃郡上藩主青山大膳亮邸地を市地に属させ、同五年十一月神葬地と定め、坪数八万四千五十一坪を、一等より四等に分け、各等級により使用制限及び資用料を定めました。一等は二坪以上十六坪まで、二等は一坪以上八坪まで、三等は半坪以上四坪まで、四等は四半坪以上一坪までとあり、資用は一等が六円から五拾四円まで、二等が参円から壱拾七円まで、三等が壱円五拾銭から四円五拾銭まで、四等が六拾銭でした。明治七年九月神仏一般の共葬地として開設。その後青山墓地の移転問題がおこり、大正十年二月に多摩墓地の工事が始まり、明治神宮表参道に通ずる道路工事に伴い、青山墓地内の該道路にかかる墓地は、逐次多摩墓地に移転をさせられた。なお昭和十二年三月、それまでの青山墓地内の無縁墓地を整理、多摩墓地へ改葬しています(使用者6千2百4名、昭和十年開始、昭和十二年多摩墓地へ一部移転、無縁墓地調書作成、調書作成7089名、実際移転数6204名)
青山霊園附属立山墓地
青山墓地の西南端、小丘陵に立山とばれた所があります。以前は足し丘(たしやま)とよばれ、江戸時代の百人組屋敷内にあり、与力同心が住居部分の外、足地(たしち)として与えられた地所で「たしやま」と称されたが、いま立山(たてやま)と称されています。ここは、明治五年開設、面積五千二百三十三坪あり、青山共葬墓地区と別するため、立山共葬墓地と名付けられた。
参考図書
港区史 港区役所
東京名所図会 赤坂区・麻布区之部 睦書房
青山霊園みちしるべ 中村 好子
青山霊園 東京公園文庫 田中潔
青山霊園掃苔録 区史跡の会
港区の文化財12 赤坂・青山その2 港区教育委員会
東京・神奈川とその周辺 著名人の墓碑録 母里三十四
江戸大名旗本の墓 河原芳嗣
警視庁と会津藩士 会津史談58号 塩谷七重郎
名士の墓碑めぐり 人文社