青山霊園
(会津関係篇U)

青山霊園(会津関係篇T)
1、警視庁墓地 2、林権助 3、秋月胤永之墓 
4、山川健次郎 6、小川亮之墓 7、出羽家墓地 
青山霊園(会津関係篇U)
8、井深家之墓 9、角田秀松墓 10、小野権之丞墓 
11、外島家之墓 12、生駒遊水墓 13、山内道行墓
14、横田秀雄之墓 15、樋口光之墓

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青山霊園(会津関係U)
8、井深家之墓
1種ロ20号8側
左側から手前までが井深家の墓所で、一族七基のお墓があります。草茫々の感じがしますが、植木で周りを囲っているため、写真の腕の問題で、一寸実際とは感じの違う写真になってしまいました。
井深梶之助之墓
    花
井深勢喜子之墓
井深宅右衛門之墓
井深八代子之墓
安政元年六月十一日生
昭和十五年六月二十四日歿
会津藩士井深宅右衛門の長男。戊辰戦争では越後に出陣、のち明治学院総理となる。
花は、後妻の花子昭和二十四年九月十三日歿
井深梶之助の先妻
安政六年十一月一日生
明治三十一年三月廿一日歿
天保元年一月二日生
明治三十年三月十九日歿
会津藩士、戊辰戦争では第二遊撃隊の隊頭として越後小出島で戦う。
天保七年正月四日生
大正七年五月十三日歿
井深宅右衛門妻で、西郷頼母の妹
9、角田秀松墓
1種ロ16号21側
海軍中将従三位勲一等功二級
明治三十八年十二月十三日薨
会津藩医・角田良智の二男、戊辰戦争では竹村 俊秀の狙撃隊隊士として参加、竹村 俊秀は後の思案橋事件関係者
角田秀松 室勇子墓
大正六年三月十七日歿
   享年五十九歳
角田家家紋 五瓜に右三巴
10、小野権之丞墓
2種イ13号9〜15側
肇・乕之助・権之助・美壽・美登
       之墓
下平、土屋、本多、両角、大橋、鈴木
上野、矢野、小野建之
会津藩士、名は義忠。小野権之丞義行の長男。戊辰戦争の際は抗戦を支持、五稜郭の箱館病院事務長。「小野権之丞日記」を残す。
小野家家紋 本多立ち葵 
11、外島家之墓
2種イ3号1〜9側 
外島機兵衛 明治元年二月七日
 室 房子 明治十三年十二月二日
 外七名 外島雪建之

会津藩士。堀藤左衛門の次男。のちに義直。外島家を嗣ぐ。

12、生駒遊水墓
1種ロ25号10側


生駒八郎真静 旧会津藩士族
(遊水、生駒左衛門真諒二男) 
明治十年六月十五日歿
妻 己き 明治十七年三月二十八日歿

山内道則 妻次子之墓

旧会藩青森県士族 
明治廿三年二月廿八日

13、山内道行墓
2種イ13号8側

明治七年甲戌四月七日
香雲院釈明曜居士
旧会藩
青森県士族 山内道則長男道行墓
行年十九 

14、横田秀雄之墓
1種イ9号23側
文久二年八月十八日信濃松代生、
松代横田家の先祖は、奥会津横田に住んでいた横田大学と伝えられています。
横田秀雄氏は大審院長、その子正俊氏も最高裁判所長官を務めました。
横田家家紋 山ノ内三ッ柏
青山霊園で、この家紋に会えたのは、大きな収穫でした。
会津山ノ内三ッ柏は、柏の葉が丸に掛っていて、丸の中に柏がある土佐山内三ッ柏とは異なります。天正十七年、山ノ内氏勝は伊達勢と戦い、駿府にいた家康の家臣、弟横田大学に応援を頼んでいます。
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15、樋口光之墓
 2種イ6号33側

樋口光君墓表
君諱光利稱源介後改光氏樋口考諱光映稱源治妣高橋氏世仕会津
候君累進物頭明治戊辰之乱会津與奥羽諸藩連衡舉兵君為軍事奉
行副轉戦誉地大枕西軍而既同盟諸藩多敗西軍四集若松城當是時
藩士有唱降服者有欲枕城戦死者議論紛然君知事竟不可為徒殺無
辜無益賛降服説幹旋甚力侯嘉納焉乃使君等因米澤納降於西軍事
平既而舊主封于斗南君以大属為野邉地支廰長安撫士民及廃藩置
縣奉職青森縣廰凡十有六年明治二十三年七月為舊主家令移于東
京明治三十二年一月二十三日病没距天保戊戊十月六日生享年六
十又二葬青山塋域君資性忠直至誠□事到處有令名及為家令請報
父祖累世厚恩之秋也拮据経紀主家樞務事略就緒未全成而歿惜哉
配中澤氏生二男一女長亮嗣次鎮女美佐共早世余曽知君又與亮君
友善項日有墓表之屬故叙其梗概如比
  明治三十九年五月          小野士格撰
                     本間覃山書

会津藩士、小石川第松平家家令
樋口家之墓

墓側
樋口源治光映
明治六年十二月十四日六十四歳